李太喜『自由と自己の哲学――運と非合理性の観点から』(岩波書店、2024年)をザッと読んで

李太喜『自由と自己の哲学――運と非合理性の観点から』(岩波書店、2024年)を読んだ。他の仕事の合間に、一部流し読みしながら、大事な箇所を集中して読む、という仕方で読んだので、まだ完全なレビューはできないが、以下、手短に現時点の感想を述べておきたい。

李の本には――結論から言えば――〈いまだ李の本でしか詳述されていない事柄〉が書かれているので、この点ですでに読む価値がある。人口に膾炙した言い方をすれば、ちゃんとした「オリジナリティ」があり、他の本で替えがきかない、ということだ。李の本の独特の主張が何であるかは後で説明することにして、まず同書の構成を簡単に説明しておきたい。

ざっくり言えば、前半が「勉強パート」で、後半が「独自主張パート」だ。もちろん同書は学術書であるので《前半は後半の準備として書かれている》という有機的構成があるのだが、いずれにせよ〈自由と責任の哲学〉に不慣れなひとも前半の勉強パートで議論の大枠を掴むことができる。それゆえ、李の本を読むさいに多大な予備知識が必要となる、ということはない。

ちなみに「独自主張パート」へ切り替わっていく場面はかなり盛り上がる。私にとっては、115頁あたりから、文章の表情が変わる感じがあった。このあたりから先の箇所は、重要な意味で「李自身の言葉で」書かれている。そこでは〈書き手がコミットしているところの事柄〉が明らかになる――それゆえ《こうした部分がなければ「哲学書」ではない》というまっとうな感性の持ち主にとって、李の本は文字通り「哲学書」になっている。

さて「自由」をめぐる李の根本的発想は何か。それは、おそらくは誤解されるであろうまとめ方をすれば、《自由は運(luck)の一種だ》というものである。このまとめに対しては《自由が運であるはずはない》というリアクションがあるだろうが、この「自然な」反応にたいしては以下のように講釈したい。

ひとが完全に合理的に行動せんとするとき、何が生じるだろうか。そのひとはそれまで自分が得てきた〈合理的思考のための資源〉を総動員するだろう。自分の経験や既知の一般的知見を活用し《現時点で何を行なうことが自分にとってベストか》を考量する。こうした合理的思考のもとで《これこそが最善だ》と判断される事柄が行為へと移される。

李の発想はこうした合理的意志決定プロセスに「不自由」を見出す。だがそれはどんな種類の不自由か。それはいわば過去による縛りだ。じっさい――前段落で記述したように――或る意味の〈合理性の徹底した追求〉は〈過去のプロセスによって築き上げられた現在の自己のベストを尽くすこと〉である。だがこうした追求において「合理的」とされるものは、あくまで、いわば事前の視点において合理的であるに過ぎない。李曰く「仮に完全なコントロールのもとで行為しようとするならば、そこでなされる行為は、過去に縛られ、過去から生まれる他なかった行為だということになる」(227-228頁)。こうした過去への隷属は〈私たちの価値観の広がりの可能性〉を、ひいては生の可能性を狭めるだろう。だが私たちはかかる〈過去による縛り〉に縛られっぱなしではない。

じっさい「運」の介入は、前段落で指摘された事柄を踏まえれば、過去の軛から自己を解放する「断絶」だと解されうる(228頁)。すなわち事前の視点から「不合理」とされる事柄を敢えて選ぶことは、一方で結果の「よさ」が不確実なものに留まるところの「運的(賭的)」行為に他ならないが、他方でときに〈自己を過去の奴隷でなくす〉という積極的な作用をもつ。そして後者の働きに光を当てるのが李の作品である。運に身を委ねるとき、ひとは自己変容しうる。すなわち、事前の視点で「よい」と判定されえなかった事柄にかんして、予想外の仕方で事後的に別の評価ができるようになったりする。これは重要な意味の〈自由の運動〉である。さきに述べられた《自由は運の一種だ》というテーゼはこうした文脈で理解されねばならない。

さて最後に、ここまでの私の説明――すなわち「自由にかんする李の根本発想は、自由は運の一種だ、というものだ」という説明――を聞いて「うーん、何かしっくりこないなあ、読むのはやめておこう」などと考えたひとにたいしてひとこと述べておきたい。

その〈しっくりこなささ〉はあくまで事前の視点からの判定である。それゆえ、それに縛られて李の本を読むことを控えることは、李が指摘する〈過去への隷属〉の一形態に他ならない。おそらく、現時点で「しっくりこないなあ」と感じるひとこそ、李の本を読むことによって自己変容し、李のテーゼをこれまではできなかった仕方で評価できるようになるはずだ。同書は万人にとっても奨められるが、とくに《自由が運の一種であるわけはない》と確信をもってしまっているひとにたいして大きな学びとなりうるだろう。