瀬戸内哲学研究会(2026年2月21日)の発表原稿
次の土曜日(2026年2月21日)に瀬戸内哲学研究会で発表します。発表原稿は次です。
山口の視点による応用哲学会の2025年の大会――哲壇よもやま話
前の土曜日と日曜日、すなわち二〇二五年の九月六日と七日に応用哲学会の年次大会があった。そこで見たこと・聞いたことを記しておきたい。これは、言ってみれば、一種の「哲壇よもやま話」である。加えて、覚え書きとして忘れてしまう前に記録しておこう、という意図もある。
土曜日の朝は六時くらいに起きた。イベントのある日はなぜかしらふだんよりも早く目が覚める。遠足の日の子どものようである。いずれにせよ、朝食を食べ排便をし、そして身支度をし、いろいろやっていると八時前になった。家を出て大阪成蹊大学へ向かう。これが今年度の大会のホスト校である。
九時すぎに到着。まだあまりひとがいない。受付で成瀬尚志に会う。このひとはホスト校の教員であり、今回の大会のアレンジメントに尽力した人物である。かつてはクワイン研究で知られていたが、現在はむしろ《レポート課題はどう実施されるべきか》などにかんする実践的研究で有名である(この分野の彼の研究を参考にしている教員は多いはずだ)。「お久しぶりです」「お元気ですか」と挨拶し旧交を温める。
研究発表のひと枠目は一〇時に始まる。会場は複数あって並行セッションの数も多く《どこに行くか》を大いに迷うが、《これぞ》と思える発表をひとつ選び、会場の聴衆席に座りボーッとしていると同じ会場に藤川直也が来た。このひとは最近『誤解を招いたとしたら申し訳ない』(講談社メチエ、二〇二五年)を上梓した言語哲学者である。彼とおしゃべりしていると、なぜかしら《講義中にトイレに行くことはあるか》という話になった。こうした他愛のない話は学生時代の記憶を喚起する。大学院生だったころの一時期、そして博士論文を書いた直後の一時期、私は藤川やその他の京大文学部哲学系の院生とよくつるんでいた。ただし、「つるんでた」と言っても、三条や四条の盛り場に遊びに行ったりするよりも、読書会を共にする時間のほうが長かったのだが。藤川とは例えばソームズのテクストを読む集まりで一緒だった気がする。
ふた枠目、そして三枠目の発表を聞き、昼休みになる。とはいえ私は理事会に参加せねばならない。けっきょく昼の休憩時間は無かった。すなわち、いろいろ話し合っているうちに昼休みの時間はすべて溶かされ、四枠目の発表の開始時刻が近づいてきた。午後の部の開始にさいして、あまりに腹が減っていたので、青田麻未が理事会のメンバーのためにもってきてくれた東京土産のお菓子をふたつ食べる。このひとはもちろん『「ふつうの暮らし」を美学する』(光文社新書、二〇二四年)で有名な青田麻未である。
午後のひとつ目の発表を聞き、ふたつ目の発表の司会をした。このあたりで集中力が切れてしまったので村山達也に「喫茶店でも行きませんか」と声をかける。このひとはフランス哲学の専門家だが、学会中に「喫茶店でも?」と誘うと高確率でご一緒してくれる人物であり、たいへんありがたい。彼のところの院生であるY君も連れて三人、学外へブラブラと出る。校門のあたりで形而上学者の鈴木生郎を見つけたので彼も道づれにする。四人で《どこかいい店は?》と探していると、ちょうどクレープ屋さんを見つけたが、ひげ面の四人の男性に居座られると(すなわち私も村山も鈴木もひげを生やしており、Y君もたまたま無精ひげの状態であった)お店の雰囲気にそぐわず迷惑をかけるかもしれないと忖度して遠慮し、ちょっと先にある、われわれがいてもよさそうな(と言うと失礼になるかもしれないが)喫茶店に入った。そこで各々聞いた発表の感想を言い合ったりする。じつにこうした時間こそ学会の醍醐味である。一時間以上ダラダラくっちゃべって《そろそろ総会だな》という頃に会場へ戻る。
と、ここまで一気に書いて、以上を読み返し、あまりに内容の薄いことに愕然とした。いや、学会というものの雰囲気がそれなりに伝わる文章になっているとは思うが、さすがに「哲学的に得られる何か」が無さ過ぎる。そして実のある話が皆無であれば公表する理由が相当に失われる。だが、はたして今回の大会にかんして私が語ることのできる事柄で、何かしら「実のある」話などあるだろうか。――ひとつあった。
時間の順序を入れ替えて二日目へ飛ぼう。大会の第二日、すなわち九月七日の日曜日、私は午前の或る発表の司会を任されていた。それは「道徳哲学者は道徳的なふるまいをすべきより強い理由を有するか?」と題された吉村佳樹の発表だったが、私はその発表の(内容も興味深かったが)どちらかというとスタイルに感銘を受けた。すなわち、吉村のプレゼンテーションの仕方にかんして、「ああ、こんな感じもありだなあ」と思い知らされた。ではいったい何がよかったのか。
応用哲学会では(義務ではないのだが)多くの発表者はパワーポイントあるいはその類を用いる。そのさい《どうパワポを用いるか》はそれなりに工夫の可能な事柄だが、私の場合は、いわば「フリップ芸」のようなやり方を採る。すなわち、スライド上でアニメーションの機能を使いながら情報を小出しに提示し、そのつど説明を加えていく、というやり方だ。なぜこのやり方なのかと言えば、ひとつには、例えば《スライドに初めから先々の情報がドカンと提示されていると聞き手の意識が(現在の話題から)別のところへ逸れてしまう》という理由がある(それゆえ、フリップをめくるように、そのつどの情報を小出しにする、というやり方を採っているということだ)。それにたいして吉村のやり方は「めくり芸」ではなかった。それはむしろ「漫談」であった。そして《こうしたスタイルは応哲では少ない気がするが、それでもありうるやり方だなあ》と思った。加えてそれは聞きごたえのある、洗練されたものであった。
吉村はスライド上に、見出しや論証などの、発表のフックとなる情報しか載せない。そして、わずかな情報量のスライドを映したまま、あとは語りによって議論を進めていく。吉村の話を聞きながら、こうしたやり方には適性の有無があると感じた。すなわち例えば適度にゆっくりしたスピードで話すこと、そしてパラフレーズ不要の論理的に明確な文章を口頭で紡いでいけること、こうしたことが漫談スタイルをうまく行なう条件である。二番目の条件はとくに大事だ。じっさい「えー」や「なんちゅうか」といったフィラーの多い語り手や、一文を述べる最中に「あ、ただし……」と挿入句をたくさん加えてしまう語り手(私は両方に該当すると思う)は必ずしも一聞してスッと理解できる文章をしゃべらないので、漫談スタイルには不向きである。で、吉村の今回の語りは両方の条件をクリアしており、加えてその他さまざまな長所を具えていたので(詳細は割愛するが)、良質な漫談スタイルの発表を聞くことができた。
教訓は何かと言えば、まあ、月並みなことしか言えない。おそらく、発表のスタイルはさまざまな可能性があるので、みなさん、いろいろ試して自分に合ったスタイルを見つけましょう、くらいである。はたしてフリップ芸や漫談以外にどんなスタイルがあるだろうか。芸人のやっていることにヒントがあるかもしれない。
いちおう実のある話は(たぶん)できたので、一日目に戻ろう。初日の懇親会後、朱喜哲があらかじめ三〇席ほど押さえてくれていたお店へ向かう。道中、朱と川瀬和也と私の三人でしゃべっていると、私の最新刊『現代日本哲学史』(青土社、二〇二五年)の「反ヘーゲル的なヘーゲル主義」に話が及んだ。作品の全体的な構想についてはやはり専門家こそがいちはやく理解してくれるので、二人に「ぜひこのあたりに気をつけて、気が向いたら読んでください」と伝える。朱はローティ研究で有名で『〈公正〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス、二〇二三年)の著者、川瀬は専門書のみならず一般書も精力的に世に問うヘーゲル研究者であり最近では『ヘーゲル(再)入門』(集英社新書、二〇二四年)を公刊している。
店でビールを飲んだ後は《いろいろしゃべった》という事実以外ほとんど覚えていない。ただし、朱だったか誰かが「ハイボール、飲むひと!」とみんなに声をかけると、青田麻未がよく通る声で「はーい」と手をあげて答えていたのを、鮮明な印象とともに記憶している。おそらく「ハイ」と「はい」の押韻上の偶然の一致が興味深かったのだと思う。
帰路は浅野将秀と二人だった。帰り道が途中まで同じなのである。浅野はドイツ哲学の研究者で〈概念形成〉という事象に関心をもつひとだが、サックス奏者でもある(人前でも吹く)。彼は現在神戸大学に勤めており、彼の住まいと私の実家が近いので、たまに三宮に飲みに行ったりもする(趣味人なので話がたいへん面白い)。タクシーを使わずに帰宅できる最終の電車をふたつ乗り継いで無事に帰ることができた。午前零時過ぎに家に到着。すぐ寝れば健全な時間である。
二日目は午前中の発表を聞いただけで会場を後にする(で、昼から飲むことになる)。
帰る前、廊下で、来月(すなわち一〇月一三日)に神戸大学で行なわれる〈俳句と哲学〉のイベントのポスターを見ていると、形而上学と美学の専門家である西條玲奈から「山口さんにぴったりのイベントじゃないですか」と言われた。理由は〈文体にたいする私の文学的こだわり〉にあるらしい。自分の文体およびそれについてのこだわりにかんしてあまり意識したことがなかったので、意外に感じられたが、何となくうれしかった。〈俳句と哲学〉のイベントに来る俳人については長門裕介が「作品がすごい、鑑賞する価値が大いにある」と言っていた。このひとのセンスは信頼できるので自分でも味わってみようと思った。
久木田水生と十三で飲む。これが私の今年度の大会の「しめ」である。久木田との会話についても《いろいろしゃべった》という事実以外たいして覚えていない。ただし『美味しんぼ』の八三巻だったか八四巻だったかについてこれまた興味深い感想を聞いた[*]。これについても、自分でも味わってみようと思った。
[*] 後日久木田本人から指摘があり、当日言及されたのは八九巻だった(それゆえ私も八九巻を手に入れて味わうことにする)。
P. S. 私の「フリップ芸」の一部が味わえるyoutubeの動画のリンクを貼っておく。加えて〈俳句と哲学〉のイベント情報が載ったページのリンクも貼っておく。
《マトリックス》と懐疑論
来たる6月14日(土)に中央大学でワークショップ「マトリックス世界は可能か――シミュレーション仮説から考える」が開催されるが、そこに登壇することになった。別の登壇者は科学哲学者の青木滋之と『この世界は誰が創造したのか――シミュレーション仮説入門』(河出書房新社、2019年)の著者・冨島佑允である。
発表に向けて、考えをまとめるため、つらつらとメモ書きをつくった。以下それを共有しておきたい。
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1.
はじめに三つの懐疑論を並べてみる。
私はいま原稿を書いている。とはいえこれは夢の中の出来事であって私はじっさいにはベッドですやすや眠っているかもしれない。いや、さらに言えば、私がこれまで体験してきたことはすべて長い夢の中の事柄かもしれない。だがもしそうであれば世界について私が知っていると思っていたことはすべて間違いであるかもしれない。いったいぜんたい私はリアルな世界について何ごとかを知っているのか。――これは「実在の知識をめぐる懐疑論」の問題である。
私はトイレに行くために立ちあがる。ただし、じっさいにはもう少しガマンできたわけであって、いまこの時点でトイレに行くことを決めたのは私の意志である。私は自らの自由意志のもとで行為している。とはいえよくよく考えれば私は水素原子や炭素原子といった物質だけからできているではないか。そして原子たちが織り成す運動はいわば「たんなる出来事(mere happening)」であり、こうした物質が集まってできるタンパク質、細胞小器官、神経細胞等々のふるまいも「たんなる出来事」に過ぎない。かくして人間の行動も「たんなる出来事」であって、それを「ひとの行為(one’s doing)」と考えることは一種の錯覚に過ぎないと思われてくる。いったいぜんたい人間は何かを選び、何かを行なう存在なのか。――これは「自由意志をめぐる懐疑論」の問題である。
トイレに置いてある冨島佑允『この世界は誰が創造したのか――シミュレーション仮説入門』(河出書房新社、2019年)を読むとボストロムの議論が紹介されていた。曰く、ポストヒューマンの文明においては(一定の前提が成り立てば)さまざまなシミュレーション世界が作り出されているはずある。すると、ポストヒューマンの文明の存在の可能性は、この世に数多のシミュレーション世界がある可能性を拓く。そして、この可能性のもとでは、私たちはシミュレーション世界の住人である可能性のほうが大きい。いったいぜんたい私たちは、とりわけ私は、シミュレーション世界に生きているのか、それとも「本当の」世界に生きているのか。――これは「シミュレーションと現実をめぐる懐疑論」の問題である。
思うに《どんな理由から哲学へ向かうか》は哲学者の個々人で異なる。そして、哲学者の中には、懐疑論に伴う苦痛や不快から哲学を始める者もいる。私はそのタイプの人間だ。もちろん哲学者のうちには《自分は実在について何も知らない》・《自分は自由でない》・《自分はシミュレーションの中に生きている》という可能性にいかなる苦痛や不快も感じない者もいる。さらに言えば、そうした可能性に楽しさや快感を感じる者もいて、私としては「それはそれでたいしたものだ」と思っている。いずれにせよ本稿では実在の知識・自由意志・シミュレーションにまつわる懐疑論を俎上にのせる。
本稿(このメモ書き)の目標はこれら三つの懐疑論の関係を掘り下げることだ。おそらくシミュレーションの話題は、初見では、夢の話題につながると思われるだろう。とはいえ見方によってはそれはむしろ自由意志の話題につながる。このあたりを或る程度解きほぐすのが本稿の課題である。
2.
冨島の本を受けて《私たちがいる世界の全体がシミュレーションだ》という考えを「シミュレーション仮説」と呼ぼう。この仮説がどんな事態を含意するかは、思うに、「シミュレーション」という語で何を指すかに依存する。例えばそれがコンピュータにおける電子計算が実現するシミュレーションを指すとしよう。この場合、コンピュータのディスプレイに映ったデジタル世界と画面の外の世界とが異なるのと同様に、シミュレーション内の世界とそれを実行する機械の外の世界は区別される。そしてシミュレーション内の世界を「幻影」、コンピュータの外の世界を「実在」と見なしたくなるかもしれない。そしてそう見なす場合、《私たちはずっとシミュレーションの中にいる》という仮説は《私たちがこれまで出会ったものはすべて幻影であり、私たちは実在について何も知らない》という命題を含意する。だが《シミュレーション世界を幻影を見なすことは必定か》は決して自明ではない。
例えばチャーマーズは、シミュレーション世界における出来事も(場合によっては)実在たりうる、と主張する[1]。じつに――彼の理屈を最も簡略化して再構成するが――私たちが《自分は決してシミュレートされた世界にいるわけでない》と信じているとする。この場合、もし私たちがじっさいにはシミュレートされた世界で生きていたとすれば、私たちの考えの一部は誤りであったことになる。とはいえ一切が誤りになるわけではない。例えば空が青いことやネコがモフモフしていることは、たとえシミュレート世界のうちであっても、依然として事実である。じつに(この理路が核心!)私たちから生まれてからずっとシミュレートされたデジタル世界にいるとすれば、デジタル猫やデジタル空が私たちにとって真の猫・真の空になる。かくして、チャーマーズによれば、《シミュレートされた世界の出来事は幻影に等しい》という命題は成り立たない。
[1] 『リアリティ+』(高橋則明訳、NHK出版、2023年、上下巻)、上巻179頁などを参照されたい。
私は必ずしもこうしたチャーマーズの議論が決定的に正しいとは思わないが――その理由はこれからの議論を通じて判明するだろう――「実在/幻影」の区別がそれほど単純でないのは事実だ。そして私自身はいまのところこの区別を大森荘蔵の仕方で理解したいと考えている。それは「実在/幻影」を、〈生きること〉や〈生存〉を鍵概念として「プラグマティックな」方向で理解する道だ。その行き方を説明すれば以下[2]。
[2] 大森荘蔵『流れとよどみ』(産業図書、1981年)、第1章「夢まぼろし」等を参照されたい。
そもそも幻影とは何か。そして幻影と実在の区別はいかなるものか。このふたつの問いへ同時に答えんとするさい「実在と合致しない事柄が幻影だ」とは言えない。なぜなら、そう述べるためには、〈幻影から区別された実在〉が前もって確保されていなければならないからだ。大森荘蔵の枠組みはこの困難を回避する。すなわち彼は、「実在/幻影」の区別をあらかじめ想定せず、むしろ一切を「立ち現われ」のうちで捉えす。そしてその内部に「実在」と「幻影」の区別を打ち立てる。
例えば私が山道を歩いている。私は眼前に蛇を見出しびっくりする。だがさらに近づくとたんなる縄だと分かった。大森はこうした出来事を「立ち現われ」という用語で分析する。曰く、私に対して、まずは蛇の立ち現われがあり、その次に縄の立ち現われがあった。押さえるべきひとつは、蛇は私にとって存在していた、という点だ(さもなくば私は蛇を見てびっくりすることもなかった)。蛇も立ち現われ、その後、縄も立ち現われる。とはいえ私は最終的に蛇を「幻影」とし、縄を「実在」とする。いったんぜんたいこの区別はいかにして導入されるか。
大森はだいたいふたつの基準を挙げる(それらは連動しているが)。第一に、諸々の立ち現われのあいだで、互いに密につながった立ち現われは「実在」とされ、離れ小島のように孤立した立ち現われは「幻影」に分類される。先の例だと、一方で縄の立ち現われはその後で私がそれを触ったときに得られたガサガサした触感の立ち現われとも整合的であるが、他方で蛇の立ち現われは他のさまざまな立ち現われから孤絶している。
第二に、諸々の立ち現われのうちで、私たちの生存にかかわるものが「実在」とされる。先の例だと、縄の立ち現われはその後〈道具〉としても〈武器〉としても活用でき私たちの生存にたいして一定の意義をもつが、蛇の立ち現われは一過性で生への重要性を具えない。
いったんまとめよう。
大森の枠組みにおいては、根本的には、実在/幻影の区別は無い。一切は立ち現われる。とはいえ私たちはこうした立ち現われのうちで、いわば事後的に、「実在/幻影」を区別しながら生きる。すなわち、互いに密につながっており私たちの生にとって重要性をもつ立ち現われを「実在」とし、孤絶しており私たちの生にとって意義をもたない立ち現われを「幻影」とする。立ち現われのうちで、或る意味で「プラグマティックに」設定される区別、これが大森の枠組みにおける「実在/幻影」の区別だ。この基準に従うと例えば夢は、その孤絶性および生存にとっての重要性の少なさのために、幻影の側に分類される。
――するとどうなるか。
大森の基準に従うと《マトリックス》のデジタル世界はむしろ実在的である。なぜなら同作においては〈デジタル世界のうちで死ぬこと〉がじっさいの死につながるからだ(どういうメカニズムでそうなっているかは謎だが)。それゆえ――もちろんこの点は別の仕方の分析の仕方もあるだろうが――《マトリックス》のデジタル世界は、たしかに一種のシミュレーションだが、重要な意味でリアルである。その一方で、逆に、例えば或るシミュレーション世界が〈そこで何が起こっても目覚めてしまえば無かったのと変わらない夢〉のようなあり方をしているとしよう。この場合、その世界は「幻影的」である。かくして、シミュレーション世界がいつか覚めうる夢の構造をもっている場合には、シミュレーション世界は幻影に等しくなる。
押さえるべき点のひとつは次だ。すなわち、《自分がシミュレーション世界にいる》という事態を考えるさい、《自分の生と死がどこに位置づけられるか》は相当に重要な問題である、と。例えば私たちの各々が文字通りシムであり、シミュレーションを停止すると私たちが消滅してしまうようなケースでは、シミュレーション世界が私たちの実在世界となる。なぜならこの場合、シミュレーション世界が私たちにとっての出口の無い生存の場となるからである(かくしてその世界は私たちにとってリアルであらざるをえない)。
これと対照的なのは、冨島も取り上げる「水槽の脳」のようなケースだ。すなわち、
ある科学者から脳を取り出し、脳を生かしておくために培養液の入った水槽に漬けておきます。それから脳に電極を刺して、脳へ電気信号を送るための高性能なコンピューターにつないでおきます。意識は脳の活動によって生じるはずなので、水槽の中の脳には、普通の人と同じような意識体験が生まれるはずです。水槽の脳は、コンピューターからの電気信号を本当の世界だと思い込み、見たり、聞いたり、おしゃべりしたり、泣いたりします。(『シミュ仮』、26頁)
コンピューターからの電気信号による世界においては、たとえ死んでしまう意識体験を得たとしても(追加の条件が無い限り)それは決して真の死でない。水槽の脳にとっての死は――もちろん彼女/彼はこの事実に気づいていないが――脳とその水槽を取り巻く世界の側にその位置をもつ出来事である。すなわち、脳の意識のうちで何が体験されようとようとも、目覚めて(すなわち彼女/彼が水槽の外の世界を体験し始めて)しまえば無かったのと変わらない夢のようなものとなる。そしてこの脳は、例えば外界をセンサーする神経的システムに接続されることで、彼女/彼のいる世界のうちに目覚めることが可能であろう(それは少なくとも原理的には可能だ)。かくして「水槽の脳」は〈目覚めることが可能な夢〉の構造をもっており、その体験世界における死は真の死ではない。この意味でその脳の体験することは幻影的だと言える。
本節の締めくくりとして「死」について少々。何をしたら死ぬかは、よくよく考えれば、生きているあいだは決して確実には知りえない。じっさい、自分にとってかつて死んだように思われたひと(例えば病気の後に心停止したひと)も、少なくとも可能性として、別のどこからで何かしらの形で生きているかもしれない。だがそうなるとこれまで言及してきた「死」とは何であるのか。それはさまざまな立ち現われのうちへ差異を導入するひとつの理念である。私たちはそれぞれ、自分が理解するところの「死」から逆照射して、《かくかくはリアルだが、しかじかは幻影だ》と分類を行なう。そしてこの分類は決して確実なものではない。例えば、たんなる幻影と軽んじていた表象のおかげで死に至る、ということはありうる。ただしいずれにせよ私たちの各々は、死へ向かう先駆的な規定によって、すなわちより具体的には〈可能的な死〉の投企から逆照する形で現在の立ち現われたちを編制しそれでもって「実在/幻影」を分けるのである。
3.
ここまでに確認されたことは次だ。すなわち、シミュレーションが〈目覚めることが可能な夢〉の構造をもっているときには、《私たちはシミュレーション世界にいる》という可能性は《私たちは実在についてほとんど何も知らない》という可能性を拓く、と。逆に、シミュレーション世界が私たちにとって出口のない生存の場であるときには(すなわち例えば私たちがシム以外の何ものでもない場合には)、シミュレーション仮説は必ずしも実在の知識にかんする懐疑論を招来しない。ちなみに《マトリックス》はたいへん興味深い「拡張実在」を描き出している。というのも同作では、或る意味で脳が作り出す仮象における死の体験が、当人にとっての真の死になるからである。立ち止まって考えれば《なぜこんなことが起こっているか》は完全に謎である(そしてこの連関を実現するメカニズムにかんしてさしたる疑問を抱かせずして鑑賞者をその世界観へ引きずり込んでしまう《マトリックス》はたいへんに剛腕な作品だと言える)。
さて《マトリックス》の話を続けるが、本作を鑑賞するさい、そこに自由意志をめぐる哲学的問題を見出すことは避けられない。次にこの話題について。
シミュレーション仮説が自由意志をめぐる懐疑を招来するか否かも「シミュレーション」という語で何が指されているかに依存する。思うに、この語を私たちが知っているとおりの仕方で用いれば、問題の仮説は避けがたく自由意志をめぐる懐疑を引き起こす。この点を説明すれば以下のとおりである。
「シミュレーション」という語は、私たちが現在知っているあり方としては、〈物理的な仕組みを具えたハードウェアにおいて何かしらのプログラミングを実行することでターゲット世界を実現する〉という営みを指す。さて、〈物理的な仕組みを具えたハードウェアにおける何かしらのプログラミングの実行〉というプロセスにおいて生じていることは、さしあたり「たんなる出来事」である。すなわちそれはいわゆる自然現象/純粋な物理現象であって、自由や選択のかかわる主体的行為ではない。ここで《私たちがシミュレーション世界にいること》および《シミュレーション世界がハードウェアにおけるプログラミングの実行というたんなる出来事において実現していること》のふたつを認めると、私たちの自由や選択はその存在を疑われる。いったいぜんたい、ハードウェアにおけるプログラミングの実行というたんなる出来事=物理現象において、いかにして主体的行為は実現しうるのか。
《マトリックス》を鑑賞するさいに自由意志のことが気になってくることの理由のひとつは以上のような理路にある。同作では「オラクル」と呼ばれる、将来のことを知っている予言者が登場するが、彼女の予知能力はおそらく一種の計算機科学的な仕組みにもとづいている。ハードウェアにおけるプログラミングの実行は――そこに非決定論的な過程を組み込まない限り――その結果をあらかじめ計算することができる(すなわちインプットや初期状態、そしてプログラミンの振る舞いのパターンを十分に正確に知ることによって)。オラクル自身も《マトリックス》という機械のプログラミングの一部なのであるが(シミュレーション世界では高齢の女性として具現化している)、それは《マトリックス》の機械の動き方を把握したプログラミングであろう。それゆえシミュレーション世界で今後何が起こるかは(少なくともいくつか)彼女にあらかじめ知られているのである。
あらためて《私たちがシミュレーション世界にいる》という仮説について考えてみよう。この仮説が正しいとして、さらに《シミュレーションは物理の仕組みに従うハードウェアにおけるプログラミングの実行によって実現される》としよう。この場合、ハードウェアやプログラミングのあり方次第で、私たちの世界にも「オラクル」が存在しうることになる。すなわち、私たちの世界の基礎にあるハードウェアとプログラミングの仕組み、そして初期条件等を十分知れば、その後に何が起こるかはあらかじめ計算可能になる。この意味でも――若干の前提を認めれば――シミュレーション仮説は自由意志をめぐる問題を引き起こす。
とはいえ《マトリックス》と自由意志の話題はもう少し複雑である。
注目すべきは《マトリックスのシミュレーション世界を実現するハードウェアやプログラミングの仕組みは鑑賞者にとって必ずしも明らかでない》という点だ。そこでは現在の私たちによってよく分からない仕方で《物理的な過程が自由意志を創出している》という事態が生じているかもしれない。そしてかかる事態は必ずしも支離滅裂ではない。なぜなら現実の(と私たちの多くが考えている)唯物論的世界[3]において私たちの相当数が自由意志の存在を認めている以上――ただし《なぜ唯物論的世界に自由意志がありうるか》のメカニズムはよく分からないが――〈物理的ハードウェアにおけるプログラミングの実行のうちに自由意志の創出を認めること〉は少なくとも私たちの従来的な思考に反するものでないと言えるからだ。もちろん《なぜ物理的なたんなる出来事から主体的な行為が生じるのか》や《なぜプログラミングの実行において自由意志が創出するのか》は依然として謎である。とはいえ一種の科学的世界(すなわち唯物論的世界)のうちに自由意志の存在を認めうる者はまったく同じ路線でシミュレーション世界のうちにも自由意志の存在を認めうる。いや、むしろ《認めるべきだ》と言えるかもしれない。
[3] ここでの「唯物論的世界」は〈基礎的な存在はすべて物質や力や場などの物理的なものである世界〉を指す。
《マトリックス》の二作目を見たとき、私はエージェント・スミスのプログラムが「進化」して何かしらの自由意志をもつようになったのではないかと感じた。ただし、私たちの世界において《あのひとは自由意志をもつのか》やさらには《自分は自由意志をもつのか》にかんする確実な答えが得られないのと同様に、エージェント・スミスの自由意志の有無についても確かなことは言えない。ただし《マトリックス》を鑑賞するさいには《機械やプログラミングは自由意志をもちえない》という見方をいったんサスペンドするほうがよいだろう。
4.
以上でシミュレーションをめぐる問題・夢と実在の知識をめぐる問題・唯物論的世界と自由意志をめぐる問題は、たしかに互いに何かしらつながっているが、それでも互いに区別されることが判明した。じっさい《自分はシミュレーション世界に生きているかもしれない》という疑いは必ずしも実在にかんする無知の可能性や自由意志の不在の可能性をつきつけない。それゆえシミュレーションの可能性にまつわる苦痛や不快は、実在の無知や自由の不在の可能性にまつわるそれとは区別される。となると次の問いが問われうる。すなわち、ひとによっては《自分はシミュレーション世界に生きているかもしれない》という可能性に苦痛や不快を感じるが、いったいぜんたい何に(ピンポイントで)苦しんでいるのか。
この問いへここでは大森流の仕方でアプローチしよう。それはすなわち「実物/シミュレーション」の区別の基準を掘り下げるという道だ。さまざまな「立ち現われ」の中で、あるものは「実物」とされ、別のあるものは「シミュレーション」とされる。だがこの区別はいかにして与えられるか。
思うに――以下はこの「メモ書き」の試論的な考察――シミュレーションを組み立てたり実行したりする主体(たち)のいないシミュレーションはない。じっさい、仮に自然発生的な「シミュレーション」があったとしても、それを実物的な自然から区別すべき理由はない。そうであれば、さまざまな立ち現われの中で、意図をもってそれを組み立てそして実行する主体すなわちこの意味の「クリエイター」が作り出すところの立ち現われが「シミュレーション」に分類される。そして、そうしたクリエイターがいない立ち現われ、すなわちこの意味で「自然の」と言われうる立ち現われが「実物」に分類される。
「実物/シミュレーション」の区別の基準のこうした分析が正しいかどうかはさらに検討が必要だが、もしこの基準が認められるとすれば、《シミュレーション仮説の何が(可能的に)苦痛あるいは不快であるのか》へひとつの答えが与えられる。じっさい、もし私たちがシミュレーション世界に生きているとすれば、私たちはひとつの顕著な無知に陥っていることになる。それはクリエイターの意図が分からないという無知だ。
もし私たちの世界がシミュレーションでないならば、すなわちそれが決してクリエイターの意図によって作り出されたものではなくむしろ「自然に」存在するものであれば、例えば《なぜこの世界はあるのか》という問いについても「まあ、究極的な説明は与えられないが、とりあえず自然にそうなっているのだ」という答えで済みうる(もちろん済まないひともいるが)。これと関連する話題にいわゆる「ボルツマン脳」がある。チャーマーズの説明を引こう。
この「ボルツマン脳」とは、物質がランダムに集まった結果、偶然にも一瞬だけ、人間の脳とまったく同じ形になったもので、物理学的思考実験としてそれを唱えた19世紀オーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンの名前をとってそう名づけられた。ボルツマン脳のほとんどはすぐに壊れて、元のカオスに戻る。とても起こりそうもないことだが、充分に広い宇宙ではいつかは起こるかもしれない。(『リアリティ+』、下巻、259頁)
《私はじっさいにはボルツマン脳かもしれない》という可能性も一種の懐疑論を招来する。とはいえ、追加の設定がない限り、ボルツマン脳にはクリエイターがいない。それゆえ、たとえ私がボルツマン脳であっても、私の存在が生み出されたさいの意図をめぐる無知の不快さは生じない(むしろこのケースでは《ああ、自分はたまたまの存在なんだ》という得心すらある)。その一方で、もし私たちの世界がクリエーターの意図的に作り出したものであるとすれば、その意図が分からないことはたいへん不愉快である。いや、もちろんそう感じないひともいるだろうが、おそらくシミュレーション仮説をめぐるひとが(可能的に)感じる苦痛や不快の根拠はこのあたりにある。
他方で、もし私たちの世界がクリエイターの意図的に作り出したものであるとすれば、その意図が分からないことはたいへん不愉快である。いや、もちろんそう感じないひともいるだろうが、おそらくシミュレーション仮説をめぐるひとが(可能的に)感じる苦痛や不快の根拠はこのあたりにある。
ただし問題の気持ち悪さは《クリエイターとしてどんな存在が想定されているか》によって変わるだろう。例えば〈神〉のような超越的存在が想定されている場合には「ううむ、その意図が分からなくても仕方がないか」となるはずだ。とはいえ、人間と同レベルの「非超越的な」マッド・サイエンティストが私たちの世界をシミュレートしているとなれば、「何でそんなことをしているのか?」と問うのは避けがたい。《マトリックス》では興味深いことに作品の初めのほうでシミュレーションの意図[4]は少なくとも部分的に判明する。それは人間に夢を見させつつ生きながらえさせながらそこから電力を得るという意図だ。とはいえそれだけだと大がかり過ぎるので何かしら別の意図もあるのだろう。
[4] 機械に意図があるとして。
「物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができる哲学的議論」、およびその他ふたつのエッセイ
一昨年、《哲学をするのに物理学の知識は必要か》や《論理法則と物理法則の関係は何か》などを note で論じた。以下、この話題を取り上げた三つのポストを再掲する。
本題へ進む前に重要な点をひとつ述べておく。
物事を正確に論じるためには全称量化と存在量化を区別することが肝要である。すなわち「任意の……について〇〇が成立する」の形の主張と「或る……が存在して、それは〇〇だ」という形のそれを区別することが大事である。ここでじつに《物理学の知識は哲学をすることにとって本質的だ》という主張は、ふつうの読み方では、全称量化を伴う主張と解される。すなわちそれは《任意の哲学実践 x について、x は物理学の知識を前提したり必要としたりする》を意味する。それゆえ逆に《物理学の知識は哲学をすることにとって本質的ではない》という主張は全称量化の否定であって、すなわち《或る哲学実践 x が存在して、xは物理学の知識を前提もしなければ必要ともしない》を意味する。以下において私は《物理学の知識は哲学をすることにとって本質的ではない》と指摘するが、これは――たったいま述べたように――ひとつの存在主張と解されねばならない。そしてこの主張は《哲学の一定の領域においては物理学の知識が前提されたり必要とされたりする》という立場と両立する(じつに私は後者の立場も肯定する)。おそらく私の主張にかんする誤解の多くはそれを全称主張と誤って解することから生じている。この点は記して注意しておきたい。
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物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができる哲学的議論(2023年7月2日 15:47)
物理学の個別的内容とは独立に行なうことのできる哲学の議論は存在するか――。答えは「存在する」である。本ノートで行なわれるような議論は、物理学の個別的内容の如何に依存しない。それゆえ物理学の個別的な内容をほとんど知らないひともそれを行なうことができるし、それを理解することもできる。
本題へ入る前に本ノートを書く動機を述べておきたい。ツイッター上でときどき「物理学が役立つ」と「物理学が必要」とを混同しつつ《哲学には物理学が必要だ》と主張するひとがいる(複数見つけられる!)。ほとんどすべての哲学者はその「役立つ」という点を否定しない。では哲学者が何に反対するかと言えば、それは次。すなわち、《物理学は哲学に役立つ》という事態を「物理学は哲学に必要」という表現で言い表す「横滑り的な」議論に対して反対する、と。というのも、「必要」を「役立つ」とは区別された厳密な意味で用いる場合、《物理学は哲学に必要だ》という命題は偽であるからだ。以下、「必要」と「役立つ」を正しく区別しながら、《哲学は物理学をかならずしも必要としない》という点を実例でもって示したい。じっさい――これが本ノートで提示したいことだが――物理学の個別的内容とは独立に行なうことのできる哲学の議論はある。
ではそれはどんな議論か。たくさんある――それは例えば《論理の法則と、自然法則とは、その特性や身分が大きく異なる》という主張を含む哲学的議論である。以下、その議論を展開する。
論理法則とは何か。一例を挙げれば、A と B をそれぞれ任意の命題とするとき、次は論理法則のひとつと認められうる。
A ならば B が成り立つ。加えて A も成り立つ。この場合、B も成り立つ。
これは伝統的に「モーダス・ポネンス」と呼ばれる論理法則である。ときに記号を使って手短に「A ⊃ B かつ A ⇒ B」と表現される。この法則は、論理法則である以上、どんな場合にも成立する。
押さえるべきは、現実の自然科学がどのような個別的な法則を明らかにしようとも、モーダス・ポネンスは成り立つ、という点だ。一般に、《どのような自然法則が成り立つか》の探究の結果に応じて、《どんな論理法則が成り立つか》が変わることはない。いや、より正確に言えば、《論理法則のあり方は自然法則の個別的内容に依存する》と考えているひとは「論理法則」という語の意味を理解していない。というのも――いま述べたことと関連する重要な事実を指摘すれば――例えば、一切の経験的探究に先んじて定まっているところの〈探究が従うべき規則〉、これが論理法則だからである。
たったいま指摘した点は敷衍できる。じっさい、何かしらの探究を行なうさい、それは論理に従う必要がある。探究にとって論理はいわば「ア・プリオリ」である。それゆえ例えば「数理的あるいは実証的な探究の結果として、モーダス・ポネンスが正しいことが証明された」などと述べることはナンセンスである。なぜなら、そもそも何かを証明するさいにも、まさに証明という営みがモーダス・ポネンスを含む論理法則を前提するからである。この意味で論理法則は「証明不要の」必然的な何かであると言える。そしてこの点で論理法則は一切の自然法則とそのステータスを大いに異にする。この事実を掴むことは、論理法則の本質の理解にとっての核心的なステップのひとつだ。
一般に、論理法則は端的に必然的だが、物理法則は一定の偶然性を具える。ここで「物理法則は一定の偶然性を具える」とは、形式的には、《世界のあり方によって物理法則は異なりうる》ということを意味する(これにたいして、世界のあり方に依らず、論理法則は一定である)。そして物理法則がこうした意味の偶然性を具えるため、現実の物理法則を明らかにせんとするさいには、世界の具体的なあり方を調べる必要がある。
以上で論じたように、論理の法則と、自然法則とは、その特性や身分が大きく異なる。これらふたつはレベルを異にしており、前者は後者に重要な意味で「先立つ」と言える。かくして、個別の自然法則の知識をまったく前提せずに、論理法則について語ることは可能である。その結果、物理学の個別的内容とは独立に、論理に関する哲学は行なうことができる。もちろん、論理と物理をつなげて語ることもできるが、これは《論理を語るさいには物理へ言及せねばならない》などを意味しない。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』において、物理学の個別的な内容へ言及せずに論理が扱われうるのは、以上述べた点を理由にしている。じつにこの著作は〈物理学の個別的内容へ言及せずに哲学を行なうこと〉の一例になっている。
――以上で展開された哲学的議論は、物理学の個別的内容とは独立している。この主張へ反論したいひとは、このノートの文章の中に〈物理学の個別的な内容の如何によって真偽が変わる文〉を探されたい。おそらく、そうした文は存在しない。これが「本ノートで展開されたような哲学的議論は、物理学の個別的内容を前提せずに行なうことができる」という言明の意味である。
最後にもう一言だけ。物理学の個別的内容を知ることは、哲学することにとって、いろいろな点で役立つだろう。とはいえこれは《物理学の個別的な知識なしに哲学を行なうことはできない》を意味しない。「役立つこと」と「必要であること」は論理的に独立である。そして、敢えて物理学の個別的内容へ言及する必要がないので、物理学の個別的内容への言及を排して行なわれた哲学的議論――その代表のひとつは『論理哲学論考』である。そして今後においても、一般に、基礎的な論理を哲学するさいに、物理学の個別的内容へ言及する必要性が生じることはない。なぜなら、繰り返しになるが、一般に《どんな論理法則が成り立つか》は《どんな物理法則が成り立つか》に依存しないからである。
《どんな論理法則が成り立つか》は物理学の個別的内容に依存しない、という命題の意味(2023年7月9日 10:25)
昨日、ツイッター上で、《どんな論理法則が成り立つか》は物理法則の個別的内容に依存しない、と指摘した。すると幾人か納得されないひとが現れた。以下、問題の命題の意味を手短に説明したい。問題の命題にかんして納得が得られれば幸いである。
「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である――これは論理法則のひとつである(ときに MP と呼ばれる)。ではなぜ「論理法則」と言われるのか。それは、A と B の具体的内容に依存せず、必ず成り立つからである。じっさい、A および B の内容がなんであれ、「A ならば B」と「A」がじっさいに正しいならば、必ず「B」も正しい。要点をまとめると次だ。すなわち「A ならば B」でありかつ「A」であるとき「B」であるという規則は、その正しさを敢えて確認するさいに、具体的な経験的事実の一切へ言及する必要がないために「論理法則」に分類される、と。
以上より何が言えるか。ひとつには次。問題の論理法則が成り立つことは、現実世界の物理学の個別的な内容とは独立である、と。例えば――これが正しいかどうかはどちらでもよいが(じつにこの「どちらでもよさ」が重要である!)――この世界の時空間が四次元であるとしよう。この場合、この四次元的な世界において、もちろん《「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である》は成り立つ。他方で、仮にこの世界の時空間が五次元であったとしても(あるいは何次元であったとしても)、それでもやはり《「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である》は成り立つ。以上は世界の任意の物理的特性へ一般化可能な話である。そして以上の話を一般化すれば、《どんな論理法則が成り立つか》は現実世界の物理学の個別的内容(ここに自然法則の個別的内容も含まれる)に依存しない、という命題が得られる。
言うまでもないことだが、「A ならば B」における「ならば」という表現へ《「A ならば B」は、A が真のとき、そして B が偽のときに、真になる》という非標準的な意味づけを与えたときは、「「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である、という法則は成り立たない」などと主張できる(これが MP を否定する意味論の一例である)。とはいえこうした主張を行なう場合にも、《A が真でありかつ B が偽である》という命題と、《「A ならば B」は、A が真のとき、そして B が偽のときに、真になる》という非標準的な意味論的規則とから、《Bが偽である》を引き出すさい(これを引き出して《「A ならば B」が真であり、A が真であるにもかかわらず、B は偽である》と導かねば目下の主張は行なわれない)、より深い次元で《「X ならば Y」でありかつ「X」であるとき、「Y」である》というもともとの法則が用いられている。この「深い」次元の MP が成り立っていなければ、問題の導出は行なわれえない。――論理法則は、かくも「深い」場所に存在するのである。
前段落の議論から、ローカルに「MP」と呼ばれる規則を否定したとしても、根底において MP などの法則へは従うしかない、などの帰結が得られる。より一般的には、個別的な理論によって根底的な MP は否定されることがありえない、などと言える。――このように《「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である》などの論理法則は、「ならば」という表現へどのような非標準的な意味づけを局所的に与えたとしても、根底においてつねに成り立つ。
論理法則は、それが正しく「論理法則」と呼ばれる限り、どんな場合にも成り立つ。それゆえ、この世界の物理的側面がどのようなあり方をしていようとも、依然として同じ論理法則が成り立つ。ここから、《どんな論理法則が成り立つか》は物理学の個別的内容に依存しない、と言えることも分かるのである。
無矛盾性・可能性・不確実性(2023年7月13日 19:30)
先日、ツイッター上で、《自然法則が異なる世界とはいったい何か》ということが問題になった。そこでは〈現実の世界とは異なる可能な世界を考え、そこで自然法則について考える〉という道行きがどのようなものかについても問題となった。本ノートではこの問題に取り組む。それにあたって〈可能な世界へ訴えて自然法則のことを考える〉という作業をじっさいに簡単な仕方でやってみたい。
強調しておきたいのは《このノートの議論が文脈をもつ》という点だ。そして、文脈を知らないひとにとっては、このノートは何がしたいか分からないものでありうる。それゆえ文脈を押さえたい方は私の最近のツイッターを遡られたい。いずれにせよ本ノートでは、〈自然法則(ここに物理法則も含まれる)が異なる可能な世界を考える〉という作業が整合性をもち理解可能なものでありうる、という点を確認できれば十分である。
さて――はじめに押さえるべきこととして――〈可能な世界へ訴えて自然法則のことを考える〉というタイプの道行きの要点をつかむにはミニチュア的なケースを考えるのがよい。なぜなら、はじめから要素が多いケースを考えるとポイントを押さえることが難しくなるのみならず、むしろシンプルな仕方でこそ物事のいわば「切り詰められた」理解が得られるという利点もあるからだ。それゆえ以下ではできる限り単純かつ簡素なケースを考える。
具体的な議論へ進む前に〈ミニチュア的な可能的状況を通じて自然法則について考えること〉の意義を述べておこう。第一にそれによって〈自然法則〉のいわば最小限の概念が得られる。第二に、この捉え方を踏まえれば、自然法則と帰納的推論の関係も分かりやすくなる。――では具体的な議論へ進もう。
何はともあれ、はじめに矛盾のない状況を何かひとつ取ってこなければならない。複雑な状況の記述を取ってきた場合、そこに何かしらの矛盾がひそんでいるリスクがある。以下においては「可能である」の条件を「矛盾がない」とする。これはいわゆる〈論理的可能性〉の概念だ。この可能性をベースとしてミニチュア的事例を考えたい。
次のリンク先の gif のような状況を想定しよう(こうしたモーションの画像(動画)を提供してくれるサイトは便利である)。そしてこの状況が、その状況が存する世界のすべてだとする。何を言っているか分かりにくければ次のように考えられたい。すなわち、何かしらの空間のうちにこうしたいわば「青点」と「赤点」(あるいは青体と赤体)が存在し、それらが一定の現象を呈する、という事態を全てとするような状況を考えられたい(何かしらの空間が入っていることは前提されたい)、と。
mathworld.wolfram.com
じつにこの状況に矛盾は見当たらない――もし「矛盾がある」と主張したいひとは具体的に「……というところが矛盾だ」と指摘せねばならない。問題の「青点」と「赤点」が蠢く状況のうちに何かしらの不整合性は見出されない。それゆえこの状況は可能である。以下、この状況を「この可能な世界」と呼ぼう。
この可能な世界では個別的な現象が生じている。ここで問いは次である。この可能な世界において自然法則は何か。このケース――個別的な現象がある意味で「完全に」現れていると言えるケース――では、さしあたり〈認識主体〉や〈実験〉や〈介入〉や〈予測〉などのファクターは脇に置くことができる。思うに〈現実世界で行なわれる、自然法則をめぐる私たちの実践〉を十全に分析するさいには、〈認識主体〉や〈実験〉や〈介入〉や〈予測〉やその他諸々の要素を無視するわけにはいかないだろう。とはいえ、〈自然法則〉のミニマルな概念をいちはやく捉えるには、こうした要因を脇に置くことができるミニチュア的世界を考えるのがよい。
ではあらためて問おう。この可能な世界において自然法則は何か。例えばこの可能な世界で「AならばBかつA ⇒ B」といった論理法則は成り立つ――だがこれは自然法則たりえない。なぜなら「AならばBかつA ⇒ B」はこの可能な世界を記述しているわけではないからである。一般に、論理それ自体は何ものも記述せず、論理的真理だけからは個別的な事実は出てこない。逆に、自然法則は一定の物事を記述しており、いわば世界に「接地」している。このように自然法則は、少なくともその内容に関して、論理法則に依存しない。自然法則を見出すには具体的な現象へ目を向ける必要がある。
ではこの可能な世界において自然法則は何か。個別的な現象を眺めれば、円運動が繰り返されているのが分かる(これはもちろんひとつの捉え方だ――以下、煩雑さをさけるため、このタイプの但し書きを省略する)。それゆえ、自然法則を見出すために、二次元の空間と一次元の時間を想定しよう。そして「赤点」のまわりを「青点」が回っていると考えよう。距離と時間の目盛りはどうするか。赤点から青点までの距離を1としよう(そして空間は二次元のユークリッド平面とする)。また青点が赤点をちょうど一周する時間を1としよう。このように準備するとこの可能な世界を単純にレジュメする記述が得られる。座標として、赤点の位置を (0, 0) とし、x軸とy軸を適当に導入し、青点の位置を (x, y) = (cos2πt, sin2πt) とする(適当な時点を t = 0とする)。この等式は、いわば「青点法則」であり、この可能な世界の自然法則の一部である。
ただちに気づかれることは次。すなわち、この可能な世界の個別的な現象をレジュメするためには、必ずしもこの青点法則を置く必要はなく、別の法則でもよかった、と。これはじっさいそうである。例えば――ひとつ例をあげれば――《青点はそれ自体では等速直線運動をしているのだが、青点は赤点から何かしらの力を受けており、この力の結果、青点は赤点のまわりを回っている》と理解して、「力」の要素を含む自然法則を立てることも可能であった。じつにあとであらためて強調することだが、ミニマルな〈自然法則〉概念に従うと、自然法則は一定の恣意性のようなものを具える。
以上から何が言えるか。それは、問題の可能な世界の個別的な現象を一般的な仕方で全体的に記述する一般言明のセットとしては、青点法則を含むセット、あるいは力の要素を含むセットなどと複数存在する、という点だ。ただし――このあたりは最終的に恣意性が残るのだが――自然法則としては、やはり、力の要素を含むセットなどよりも青点法則を含むセットのほうがよいだろう。なぜなら、この可能な世界を描写するさい、敢えて「力」というものへ言及することはないであろうからだ。ポイントは、青点法則を含むセットの方が単純だと言える、というところである。
以上のように考察すれば〈自然法則〉のミニマルな概念が得られる。それは〈問題の世界の現象を一般的な仕方で全体的に記述する最も単純な言明のセット〉といったものである。私たちがいま問題にしている可能な世界(すなわち「この可能な世界」と呼んできたもの)にかんしては、《空間は二次元である》とか(じっさい敢えて三次元と見る必要はない)、《青点の位置は (x, y) = (cos2πt, sin2πt) に従う》などが自然法則のセットの一部であるだろう。要点を繰り返せば次である。自然法則とは、ミニマルに捉えられた場合、世界の現象を一般的な仕方で全体的に記述する最も単純な言明のセットである、と。
もちろん――急いで必要な注意を付け加えれば――これはあくまで「ミニマルな」概念である。そして、現実世界において私たちが「自然法則」をめぐって行なう実践をより具体的に理解しようとするさいには、もっと「豊富な」概念が必要になるだろう。あるいは〈自然法則へもっと実在性を認める道〉が必要になる場面もあるかもしれない。だが、いずれにせよ、以上のような「ミニマルな」理解は可能である。そしてそれによって明らかになることもそれなりに存在する。
話がここまで進めば《世界のあり方に応じて自然法則は変わる》の意味も理解されうる。例えば、ある別な可能世界のマクロ的現象をレジュメするものの一部に、ニュートンの運動方程式が含まれるとしよう(運動の変化が無数に生じるより複雑な世界では、実験や観察を行ない「質量」や「力」の概念を導入し、これでもって諸現象を一般的に語ることが試みられるだろう)。この場合、こちらの可能世界においては自然法則として、ニュートンの運動方程式が成り立つと言える。他方で、もとの「この可能な世界」の法則セットの中には、ニュートンの運動方程式はない(青点法則なら含まれるが)。この意味で「ニュートンの運動方程式はこの可能な世界で成り立っていない」と言える。これが《世界のあり方に応じて自然法則は変わる》の意味である。すなわち、諸々の可能な世界のそれぞれのあり方に応じて〈世界の現象を一般的な仕方で全体的に記述する最も単純な言明のセット〉は変わりうるのであり、これが「世界によって自然法則が異なりうる」という言明の意味である。これは――念のため明記すると――例えば、ひとつの世界の内部で或る時点を境に自然法則がガラリと変わる、などということを意味しない。むしろひとつの世界のいわば「不変の」特徴を一般的な(そして単純な)仕方で記述せんとするものが自然法則である。
ここから《論理法則は自然法則に依存しない》という命題の意味も説明できる。じつに、青点法則が成り立つこの可能な世界でも、ニュートンの運動方程式が成り立つあの可能な世界でも、例えば「AならばBかつA ⇒ B」への反例は現れない。こうした論理法則――ひょっとしたら「MP」は根底的な論理法則の真の表現でないかもしれないが、いずれにせよ正しく「論理法則」と呼ばれるもの――は、いかなる可能な世界でも成り立つ。なぜならそもそも、論理に反する事柄は矛盾的であらざるをえない以上、論理に反するものは可能なものたりえないからである。以上のように、世界のあり方に応じて自然法則は変わりうるが、論理法則は世界のあり方に依存しない。論理法則は、むしろ、あらゆる世界に共通する可能性の型である。そしてこの意味の論理法則は心理法則でもない。なぜなら、心理法則は認識者のあり方に依存するが、論理法則はそうした依存性を免れているからである。
ちなみに――ここでも急いで注釈を加えれば――言うまでもなく、特定の世界の自然法則を固定して、そのもとで可能性を考えることは可能である。そしてこのやり方はさまざまな目的にとって有益である。それゆえ以上の説明は決して《特定の世界の自然法則を固定して、そのもとで可能性を考える》という道行きを否定するものではない。じっさい、自然法則を固定して、それを変えない限りで論理的に可能な世界の全体を考え、そこでつねに成立することを「自然的必然性」と規定することは可能である。本ノートでここまで行なってきたような道行きを採れば〈自然的な必然性〉についてのひとつの解明が得られる。
さて最後の話題へ進もう。「この可能な世界」と呼ばれたミニチュア世界の自然法則について考えるとき、たいへんシンプルな仕方で〈自然法則と帰納的推論の関係〉が語ることができる。出発点となる問いは次。はたして青点は今後も赤点のまわりを回り続けるか。
たしかに、これまで見てきた個別的現象においては、つねに青点は赤点のまわりを回転していた(もちろん当該運動は相対的であるので、青点を固定し、赤点が動いていると見ることも可能である――これはさしあたりどちらでもよい)。とはいえ、論理的に言って、青点が今後も赤点のまわりを回り続ける保証はない。なぜなら、これまでずっとそうであったということから、これからもずっとそうであることは論理的に導出されないからである。それゆえ、先に青点法則がこの可能な世界を一般的に記述する最も単純な言明のセットの一部だと述べたが、ここには一定の不確かさがある。そしてこの不確かさは一般化可能である。じつに、自然法則はこれまでに現れた個別的な現象を証拠としているので、それは〈今後改訂されうる〉という論理的可能性を免れないのである。とはいえ自然法則はそのつど不変的に成り立つものとして設置されるのだけれど――。
以上は〈自然法則〉のミニマルな概念からの帰結である。もちろん、ここにさまざまなファクターを導入して、《私たちが住む世界は、「補強された」帰納的推論やその他の手段によって、今後改訂されえない自然法則へ至ることができる》などの想定を行なえば(そしてその想定がそれなりに説得的なものであれば)、《私たちが住む世界で明らかにされている自然法則は、今後改訂されえない》という主張まで進むことができる。とはいえ、ミニマルな〈自然法則〉概念に従うと、例えば青点法則は今後も成り立ち続けるか分からない。なぜなら《この法則は今後も成り立ち続ける》という帰納的な一歩に論理的な必然性はないからである。
以上のように、ミニチュア的なケースを考えることで、自然法則をめぐるいくつかの事柄がたいへんシンプルな仕方で明らかになった。要点を繰り返せば以下。可能な世界ごとに〈そこで生じる現象を一般的な仕方で全体的に記述する最も単純な言明のセット〉は異なりうる――これが《自然法則は世界のあり方に依存する》という命題の意味である。また(ミニマルな)自然法則の偶然性や不確実性についてもポイントが明確化された。加えて《運動の変化と見なされうる現象がない世界では、敢えて「力」へ言及せず、より単純な位置変化の法則だけで自然法則が尽くされるだろう》といった点も明確になった。こうした指摘が「空理空論」と言われても私は気にしない。なぜなら、「空理空論」と騒いでいたひとに限って、これまで本ノートで提示されたような非常にシンプルな見通しを一歩ずつ構築したことはなかったろうからである。
ちなみに、今回はgifを話のきっかけに使ったので、ここから画像(現象)の背後にあるプログラミングのほうを自然法則と見なすアナロジー的な考察を行なうひともいるかもしれない。これはこれで面白い――とはいえ、いずれにせよ、まずはミニマルな〈自然法則〉の概念をそれとしてつかむことが肝要である。
――最後に一言だけ。
この話題にかんして私がnoteの文章を書くのは今回で三回目である。私が一回目の文章を書いた後のはじめの段階では、他者からの「分からない」という疑問にたいして、私は応答する責任を負わざるをえない(さもなければ公的空間で発言すべきではない)。だが、私が議論を構築するたびに「分からない、分からない」と繰り返されるのであれば、ある段階から私のほうにも「ではあなた自身はどのような立場を構築するのか」と問いただす権利が生じる。私は、今回のノートの議論へも「分からない」と繰り返すひとにたいしては、《あなたも自分の立場を正当化する理路を構築し、そのうえでそれを私へ送り寄こしてください》と言いたい。なぜなら、構築された議論にたいする「場当たり的な」批判はいくらでも可能である以上、批判が「場当たり的な」ものにならぬために、反論者も理論体系をいったん固定すべきであるからだ(この場合、私も相手の立場を検討できる)。私は自分がすでに言葉を尽くして説明してきたと自認している(もちろん説明責任が消え去ることはないが)。それゆえ、今後私のノートにたいして「間違っている」と述べたいひとがいるとすれば、まずは自分の立場を論理的に組み立ててからにしてほしい。
ブルース・ウォーラーの道徳的責任廃絶論が何をやっているのかを正確に理解する
来週の火曜日(3/18)に「第7回非難の哲学・倫理学研究会」(オーガナイザーは佐々木拓)があるのだが、私はそこでウォーラーの本(木島泰三が訳した『道徳的責任廃絶論』)を取り上げる。
以下に発表原稿を載せておく。
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1.はじめに
『道徳的責任廃絶論』は何を行なう作品か。ウォーラー曰く、
道徳的責任の要求と帰属は不公正である――この主張こそが本書の中心主張である。言い換えればこれは、人に特別の賞賛と報賞、非難と罰を与えることは根本的に不公正である、ということだ。(五八頁)[1]
すなわち同書は〈ひとへ道徳的責任を帰し、それでもってそのひとを責めたり罰したり、称えたり恩賞したりすること〉を「不公正(unfair)」とする。そして同書はこうした実践の「完全な廃絶」を、私たちの為すべきこととして主張する。私たちは〈ひとへ道徳的責任を帰して責めたり罰したり称えたり恩賞したりすること〉を止めるべきだ。これが『道徳的責任廃絶論』の最終的な主張である。
とはいえ――ただちに気になる点だが――同書はこの主張にどのような議論を通じて至るのか。そして自由と責任の哲学における、同書の立場の独自性や固有性は何か。本稿はこうした点を掘り下げる。それでもってウォーラーの道徳的責任廃絶論が何をやっているのかを正確に理解することを目指したい。
本稿の議論は以下の順序で進む。まず用語等を確認する(第2章)。次に《責め・罰・称え・恩賞は不公正だ》とするウォーラーの論証を押さえ(第3章)、そのうえでこの議論へのひとつの反論にたいする彼の応答を見る(第4章)。最後に、ウォーラーがやっていることを正確に理解するための視座を整え(第5章)、彼の議論を全体として掴む(第6章)。第7節は補足であり、本稿の本論には属さない。
2.応報主義的な社会的処遇
はじめに《ウォーラーが何を廃絶せんとしているか》をきちんと確認したい。例えば彼は決して「仕事をほっぽり出して生きよう」と〈無責任のすゝめ〉を行なうわけではない。ウォーラーがターゲットとする「責任」は限定的な種類のものである。本節は彼が問題にする〈道徳的責任〉がどんな領域で働く概念なのかを説明する。
第一に――用語にかんする注意だが――「道徳的」と形容される責任は法的責任や役割責任から区別される。一方で法的責任は法律上の取り決めのもとで確立する「制度的な」ものだが、他方で道徳的責任は(こうした制度的な取り決めの有無に先立つ)人間社会の基礎的な枠組みに属す。加えて一方で役割責任は例えば《船長はかくかくの責務を負う》などの「これからの」義務を指示するが、他方で道徳的責任は「すでに為された」事柄をめぐって《誰のせいか》や《誰のおかげか》を問うものである。以下の文章では、簡潔さのために、(法的責任や役割責任から区別された)道徳的責任を端的に「責任」と呼ぶことにする。
第二に――ウォーラーが問題にする事象の概略的な記述だが――私たちの社会は、《ひとが何を行ない、何に責任を負うか》に応じて、そのひとへの処遇を変える。例えばX氏が不正を行ない、彼がそれに責任を負うさい、社会は彼を責めたり罰したりする。またY氏が正しいことを行ない、文字通り「このひとのおかげで正しいことが実現した」と言える場合には、社会は彼を称えたり恩賞したりする。こうした社会的処遇の基本的様態である〈責めること〉・〈罰すること〉・〈称えること〉・〈恩賞すること〉、これがウォーラーの廃絶せんとする実践だ。そしてこれらの実践は〈責任〉の概念を前提する。
第三に――たったいま述べた点の解説だが――はたして問題の社会的処遇と責任の関係はいかなるものか。ポイントを掴むために役立つ問いは《ひとを責めたり称えたりすることはどんな場合に正当でありうるか》だ。例えば(特殊な事情の含まれない一般的なケースを想像されたいが)Z氏が「盗まなければ撃つ」とX氏を銃で脅し、その結果X氏が盗みを行なった場合、X氏を責めたり罰したりすることは正当でない。またZ氏の催眠術によって操られたY氏がひと助けをした場合、Y氏を称えたり恩賞したりすることは正当でない。なぜなら、前者では《盗みの被害はX氏のせいだ》と言えず、後者では《ひと助けの成果はY氏のおかげだ》と言えないからである。さてここでの「……は……のせいだ」や「……は……のおかげだ」で表現される関係が〈責任〉である。そしてこれについては次の原理的連関が成り立つ。すなわち、ひとをその行ないにかんして責めたり称えたりすることが正当であるのは、そのひとがその行ないあるいはその結果に責任を負う場合に限る、と。かくして〈責任〉は責めたり称えたりすることの正当性の条件だと言える(同じことが罰したり恩賞したりすることにも妥当する)。
第四に――いま述べられた点の敷衍だが――問題の社会的処遇は〈ふさわしさ〉や〈応報主義〉といった諸概念とも関わる。要点を具体例で押さえよう。X氏が盗みを行ない、彼がこの行ないとその被害に責任を負うとする。この場合、問題の社会的処遇の根底にある発想に従うと、X氏は辛い報いを受けるに「ふさわしい」と言える(なぜなら一方的に他者を害したX氏が辛い報いを受けずにのうのうと暮らしているならばそれは正義に反するからである)。一般に《悪しき行ないに責任を負う者へは辛い報いがふさわしく、よい行ないに責任を負う者へはよい報いがふさわしい》という考えは「応報主義」と呼ばれる。以上をまとめると次だ。ウォーラーが廃絶せんとする責任の実践は、ふさわしさの概念と結びついた責めること・罰すること・称えること・恩賞することなどの応報主義的な社会的処遇である。
第五に――重要な注意点だが――哲学者はときに問題の実践を、〈責任〉や〈ふさわしさ〉の概念から切り離し、「帰結主義」の枠組みのうちで捉え直す。そこでは例えば、ひとを責めることが正当であるのは、それによって社会がより良い状態になる場合だ、などと言われる。押さえるべきは、こうした「帰結主義的に」捉え直された責任実践は、〈責任〉や〈ふさわしさ〉の概念を含む責任実践と異質だ、という事実である(なぜなら、最も顕著な違いのひとつを挙げれば、帰結主義は「未来向き」の考慮に導かれているが応報主義は「過去向き」の関心をその核とする)。それゆえウォーラーは前者を、後者とは違った次元で論じる。以下ではさしあたり「責めること」・「罰すること」・「称えること」・「恩賞すること」などの言葉で(帰結主義のものでなく)応報主義のタイプのそれを指すことにする。
3.《ひとは何にも責任を負えない》と《責任実践は不正だ》という二段階の主張
ウォーラーの立場の独自性や固有性は彼がいわゆる社会的分配の問題を他の論者よりも前面に押し出す点にある。例えばウォーラーによる《ひとは何にも責任を負えない》という主張は、それに初めてふれるひとにはヴィヴィッドに感じられるだろうが、G・ストローソンやペレブームと軌を一にする考え方でありとくに新奇性はない。本節と次節では責任実践にたいするウォーラーの批判の基本的な流れを押さえるが、本丸の話は次々節以降で取り上げる分配の問題である。
ウォーラーの責任実践批判論はふたつのステップに分けて理解できる。
第一にウォーラーによれば、自然主義的な世界観を採用すれば、ひとが何かに責任を負うことは不可能になる(四四頁)。ただし「自然主義(naturalism)」には複数の意味があり、例えば一切を根本的には物質の次元で見る「唯物論的な」ものもあれば、人間の日常性を「自然」と見なす後期ウィトゲンシュタインやP・ストローソンのそれもある。自然主義のさまざまなグラデーションの中でウォーラーの考えるそれは唯物論的な極に位置し、《一切は物質の因果的連関の中にあり、人間もその一部に他ならない》とする。この意味の自然主義を採用すればいまから見るように、ほとんど論理的に、その帰結として《ひとは何にも責任を負えない》という命題が導き出される。
だがこの命題はどう導出されるのか。理屈の骨格は以下。一切が物質の因果連関の中にあり、人間もその一部だとしよう。この場合、人間の行動はすべて物理的因果の下にある出来事であることになる。他方で、物理的因果の下にある出来事はどれも、先行する原因の(決定論的)結果であるか、たまたま生じる(非決定論的)偶然事のいずれかである。さて第一に、一切が何らかの先行する原因の結果であれば(すなわち決定論が真だとすれば)、人間の行動 a は先立つ出来事 x1 の結果であり、x1 もさらに先立つ出来事 x2 の結果であり……と因果の遡行が可能となり、《このひとが a をすることは、彼女の生まれる前に存在する原因によってすでに決定されていた》などと言われてしまう。この場合、彼女は a をすることに責任を負わない。第二に、たったいま述べた議論へ「いや、a はかくかくの時点で生じた偶然事によるのだ」と付け加えたとしても、彼女のaにたいする責任が認められることはない。なぜなら、たまたま生じたことは誰のせいでもなく、いかなる偶然事も人間の責任を生み出すものではないからである。
第二にウォーラーは、《ひとは何にも責任を負えない》という多かれ少なかれ存在論的な命題に加えて、《ひとに責任を帰して責めたり罰したり称えたり恩賞したりすることは不公正だ》という正義論的な主張を行なう。責任実践の〈正しくなさ〉を指摘するさいのウォーラーの議論は「比較により示される不公正からの論証」と呼ばれる。それは以下のようなものだ(四九‐五七頁)。
ある権力者が差別的な振る舞いをした。カレンは勇敢にもそれに抗議する。同様のシチュエーションで、ルイーズは臆して黙認する。責任の実践の根底にある発想に従うと、カレンは称えられることがふさわしく、ルイーズは(少なくとも何かしらの意味で)責められるのがふさわしい。カレンとルイーズのあいだには社会的処遇にかんして格差がある。
だが――ここでウォーラーは問うが――なぜカレンは抗議するに至ったのか、そしてなぜルイーズは黙認するに至ったのか。この違いは何に由来するのか。自然主義的な世界観に従うと、問題の違いは(α)偶然、(β)状況や環境などの外的なものによる決定、(γ)性格や能力などの内的なものによる決定という三つのどれかによる以外にない。さて、(α)と(β)の場合、カレンとルイーズの行動上の違いは彼女らのコントロールを超えた事柄に由来している。それゆえこの場合、ふたりのあいだに社会的処遇の格差をつけることは不公正である。だが(γ)の場合でも、《そうした性格や能力の違いは何に由来するか》が問題になり、けっきょくはこの違いが彼女らのコントロールを超えた事柄に由来することが判明する。かくして、いずれのケースにおいても、ふたりの各々に責任を帰して社会的処遇に格差を設けることは不公正である。
ここからウォーラーは《責任実践は廃絶されるべきだ》と主張するが、以上の議論の是非はここでは問わない。とくに「比較により示される不公正からの論証」が何をやっているかは本稿の第5節以降で踏み込んで論じられる。
4.責めたら何かよくなるか?
以上で《自然主義のもとでは、ひとは何にも責任を負えず、それゆえひとへ責任を帰し、そのひとをその行ないに応じて処遇することは正しくない》と論じる理路を見た。こうした議論へ《自然主義のもとでも、責任を帰結主義的に捉え直せば、ひとの行動に応じて社会的処遇を変えることは正当化されうる》と反論する者がいる。本節では、ウォーラーのやっていることを正確に理解する企ての一環として、この反論が彼の本の中心的な話題に属さない点を確認する。
一般に――本題へ入る前の予備的な指摘だが――言葉づかいを固定した場合にこそ見えてくるものがある。例えば〈罰すること〉を本質的に〈ふさわしさ〉にかかわる過去向きの実践と捉え、言葉づかいをこの仕方で固定することにしよう。さて、a というタイプの有害な行動をとった者へ苦しみを与えれば、そのひと(およびその他のひと)はその後aをすることを避けるようになり、それによって社会はよりよくなる、という連関が成立しているとする(これは自然主義下でも成立可能である)。この場合、この連関を踏まえて「a をした者を苦しめることは正しい」と言うひとが現れうる。ここまでは問題ない。ところでいったい私たちはこのひとが言う〈a をした者への苦しめ〉を「罰すること」と呼ぶべきだろうか。答えは《先に固定された言葉づかいのもとでは、呼べない》である。じっさい、ここでの〈a をした者への苦しめ〉は〈ふさわしさ〉によって正当化されておらず、むしそれは社会をよりよくする点で正当化されている。それゆえ目下の言葉づかいのもとでは〈a をした者への苦しめ〉は、「罰すること」ではなく、むしろ例えば「有益な社会的コントロールの一部」と呼ばれるべきものだ。けっきょく何が言いたいのかと言えば次である。すなわち、責任を帰結主義的に捉え直すひとは、じつのところ責任の実践を救うことをしておらず、むしろ責任の実践を廃棄して例えば「保安処分」に似た社会的コントロールを積極的に推すことをしている、と解されうる、と。
「帰結主義的な責任」をめぐる問題は責任をめぐる問題でない。こう考えるほうが概念を曖昧にしない点でベターである。とはいえいったんこの点は措いておく。そしてまずは「帰結主義的な責任」にかんしてウォーラーが主張することを確認しよう。
責任の帰結主義的な捉え直しを導く発想は次だ。すなわち、よりよい行ないをした者をよりよく処遇し、より悪い行ないをした者をより悪く処遇するというやり方こそが、ベストな効果を帰結する分配のパターンなのである、と。ウォーラーによれば、この発想は間違っている。なぜなら問題のパターンはベストな結果を生むものでないからだ。彼曰く「それは最適に近いとすら言えず、それどころか、たとえ限定的に利益をもたらす場合でも、多大な害悪を代償として伴う」(二二八頁)。これはア・ポステリオリな事実にかんする主張なので、アームチェアの哲学が積極的な判断を下せる事柄ではない。ウォーラーがこう主張するさいの論拠を箇条書きで並べておこう。
・よりよい行ないをした者をよりよく処遇することは、よりより行ないをたやすく成し遂げられる有能なひとを怠惰にする。それゆえそれは最善の成果を促進しない。(二二〇頁)
・サボってより悪い行ないをした者をより悪く処遇することは、その者が自己をめぐって抱く無力感を強め、最終的に「セグリマン的な」学習性無力感へ陥れるだろう。これは多大な害悪である。(二二一‐二二二頁)
・真に有効な「強化スケジュール」が《そのひとが何を行なったか》の「よさ/悪さ」と一致しないことは頻繁に生じる。例えばサボってより悪い行ないをした者にやる気を起こさせる場合、すでによりよい行ないを成し遂げられる者に比して、より多く・より頻繁によく処遇することが必要になる。(二二五‐二二六頁)。
どれもア・ポステリオリな事実を語る命題と解されるべきなので本稿はその真偽を問わない。思うにその真偽は具体的な実験を踏まえたときにこそより有意味に論じられうる(それゆえ実験家でない私は沈黙する)。他方でウォーラー自身はしばしば心理学の実験へ言及するが、彼の主張へはさらなる実験にもとづいた反論がありうる。それゆえ《上述の処遇パターンがベストな効果をもたらすと言えるかどうか》についても問題にしない。むしろ私は次の概念的関係を強調したい。すなわち、帰結主義をめぐるウォーラーの諸主張が正しいか否かと、彼の本の中心的な主張(すなわち〈ふさわしさ〉を前提する責任実践は不正だという主張)の是非は互いに独立だ、と。じっさい、彼の中心的主張を文字通り解する場合、究極の問いは《ふさわしさの概念で意味づけられた責めや罰などが公正でありうるか》である。それゆえ、《はたして、よい行ないにはよい報い、悪い行ないひは悪い報いという処遇パターンはベストな効果を招来するか》へ何らかの実験が「イエス」の答えを与えようとも、究極の問いにかんするウォーラーの立場、すなわち「責め・罰・称え・恩賞などの責任実践は不公正だ」という主張はノー・ダメージである。なぜなら、要点を繰り返せば、ふさわしさの概念にかかわる責任と「帰結主義的な責任」は互いに区別されたアイテムだからである。
5.ウォーラーはいったん応報主義を採る!
以上のようにウォーラーは《どんなひとがどんな処遇を受けるべきか》を論じ、例えば《よい行ないをしたひとをその行ないのゆえによく遇することはかならずしも適切なことではない》や《悪い行ないをしたひとへもやる気を起こさせるためによく遇することは適切でありうる》と指摘する。このように《誰がよい処遇を得て、誰が悪い処遇に甘んじるのか》を決めることは、広い意味において、社会的な割り当てのパターンを定める問題だと言える。すなわちそれは「分配の問題」と解されうる。ウォーラーの責任論の独自性と固有性は彼がこの問題に向き合い、この問題にかんして「彼らしい」立場を提示している点にある。本節と次節では分配の問題という観点からウォーラーのやっていることを全体として明確かつ的確に捉えることを目指す。
「分配」という語は多種多様な社会実践や社会制度を指しうるが、いずれにせよ社会的割り当てをめぐっては必ずや次が問われる。すなわち、正しい分け方とそうでない分け方を区別する原理は何か、と。ウォーラーは《社会的分配としての応報主義的な処遇は不公正だ》とするが、そのさい――興味深いことに――彼は応報主義の発想を少なくとも一部採用している。ただしこの指摘は彼への批判ではない。なぜならウォーラーは最終的にその発想を乗り越えるからだ。いずれにせよ、本節においては、いま述べた事実を確認したい。
《正しい分配を特徴づける原理は何か》という問いにたいする答えとしてときに提示されるのが、帰結主義の発想と結びつく「福利最大化原理」である。この原理曰く、
(A)社会の福利を結果として最大化する処遇パターンが正しい。
あるいは次の「身分・地位原理」もある(この原理は或る意味で邪悪だが、非常に頻繁に採用されている)。
(B)高い身分や地位の者をよく処遇し、低い身分や地位の者を悪く処遇することが、正しい分配の仕方だ。
このように正しい分配を特徴づける原理の候補は複数あるが、その中には《責任が罰や恩賞の正当性を保証する》という第2節でふれた連関を援用するものがある。それは応報主義の発想を取り入れる次の「責任原理」だ。
(C)よい行ないやよい結果に責任を負う者をよく処遇し、悪い行ないや悪い結果に責任を負う者を悪く処遇することが、正しい分け方だ。
この原理に従うと例えば《U氏はよい行ないに責任を負うが、V氏は悪い行ないに責任を負う》という違いの存在が十分に〈U氏をよく処遇し、V氏を悪く処遇すること〉の正しさの根拠になる。それゆえ(C)は「責任原理の十分性テーゼ」と呼ばれうる。逆に次は「責任原理の必要性テーゼ」と呼ばれうるだろう。
(D)ふたりのひとのあいだでよい処遇と悪い処遇の格差を置くことが正しいのは、そのふたりのあいだで《よいこと/悪いことに責任を負うか》の違いがある場合だけである。
この原理に従うと、責任をめぐる違いがないところで処遇に格差を設けることは不正になる。さて――ただちに気づかれるように――ウォーラーが「比較により示される不公正からの論証」を展開したさい、彼は必要性テーゼ(あるいはそれに類する原理)に頼っていた。なぜなら、そこではカレンとルイーズにかんして《ふたりの行動の違いはいずれもそのコントロールを超えた要因に由来し、一方でカレンは彼女が抗議したことに責任を負わず、他方でルイーズは彼女が黙認したことに責任を負わず、両者のあいだで責任をめぐる違いがないのだから、カレンをよく遇しルイーズを悪く遇することは不公正だ》と論じられたが、ここでの不公正さ(正しくなさ)を導き出すためには(D)のような前提が必要になるからである。かくしてウォーラーはその議論の道行きにおいていったん責任原理の一部を採用していると言える。これが先に彼が応報主義の発想を少なくとも一部採用すると言われたことの意味だ。
ポイントを別の角度から敷衍しよう。
ウォーラーの言いたいことはじっさいのところ(D)よりも或る意味で「弱い」次のテーゼから十分に導き出される。
(E)正しい処遇の仕方は、よい行ないやよい結果に責任を負うひとをよく処遇すること、および悪い行ないや悪い結果に責任を負うひとを悪く処遇すること以外にない。
このテーゼは〈よいことに責任を負わないひとをよく遇すること〉と〈悪いことに責任を負わないひとを悪く遇すること〉をどちらも不正とする(もはや比較的格差は問題でない)。じつにウォーラーの《責任実践は不公正だ》という主張は、ひとつの存在論的指摘と、ひとつの分配原理(E)とのドッキングから導き出される。一方で、私たちはみな物理的因果の下にあり、誰についても《よいことに責任を負っている》や《悪いことに責任を負っている》と言えない。他方で、責任の無いところで、ひとびとへよい行ない/悪い行ないの責任を帰したうえでよく/悪く処遇することは不正である。かくして〈ひとへ責任を帰して責めたり罰したり称えたり恩賞したりすること〉は正しくない。
ちなみに《(D)や(E)のような分配原理をウォーラーは必要とするのか》についてひとことだけ解説しておこう。押さえるべきは、自然主義の世界観および《人間は何にも責任を負わない》という存在論的な命題だけからは処遇の振り分けの正/不正の区別は出てこない、という点だ。存在論的な命題は〈正しさ〉の概念を含まない。それゆえそれは他所から供給される必要がある。
責任原理(の一部)を採用したうえで責任実践の不正を指摘する、という議論の道行きはパラドクシカルに感じられるかもしれない。とはいえここには何の矛盾も無い。では何がどうなっているのか。
ウォーラーがやっていることを正確に理解するためには《彼は責任実践それ自体を不正と見なしているわけでない》という点を掴むのが役立つ。彼はむしろ《責任実践を現実に実行すれば避けがたく責任原理的に不正な事態に陥る》と言っているのだ。なぜなら、ウォーラーによれば、物理的因果の下にある私たちのあいだには責任をめぐる差異はないからである。そして――ウォーラー自身はこうした点を強調しないが――自然主義下で責任実践を正しく実行する場合には、ひとは誰ひとりよい行ないへも悪い行ないへも責任を負っていないので、〈誰に対しても何ひとつ処遇しない〉というのが正解になる。ただしこの結果は《責任に応じて責めたり・称えたり・罰したり・恩賞したりする処遇パターンは必ずや空回りするだけの無意味な実践になる》ということを示す。
6.社会的処遇の分配の適切なパターン
けっきょく、責任原理を採用してひとびとへしかるべき処遇を振り分けようとすれば、自然主義下では、誰に対しても何ひとつ処遇しないことになる。こうなると例えば「犯罪者を放置してよいのか?」や「有能なひとを厚遇せずしてどうするのだ?」という問いが喚起される。前者の問いにかんしては、たしかにウォーラーは多くのことを述べるが、それはどちらかと言えば「月並みな」ものである。すなわち彼は例えば「私たちは、ひとたび道徳的責任と個人の非難および刑罰というモデルから離れてしまえば、暴力的な犯罪行動を形成する諸原因や、さらにはそのような〔性格〕形成を受けてきた人々と共にやっていくための最善の手段を効果的に吟味できるようになる」(四六四頁、亀甲括弧内補足は訳者による)と言う。こうした見方の重要性はどれほど強調してもし過ぎることはないが、やはり「よくある」指摘であることは変わらない。むしろ――少なくとも自由と責任の哲学の文脈においては――後者の《有能なひとをどう遇するのか》にかんするウォーラーの見解のほうが新奇なところがある。なぜならこちらの問題は、哲学者が責任を論じるさい、これまで脇に措かれがちだったものだからである。
《有能なひとをどう遇するのか》にかんしてウォーラーは次のような方針を述べている。
[…]最善で、害の最も少ない報酬/報賞と強化のパターンはどのようなものになるだろうか? 確かなのは、それが道徳的責任に一致したパターンではない、ということだ。むしろそこでのパターンは、個々人の歴史と能力に対する注意深い吟味を行い(道徳的責任へのコミットメントは、この注意深い吟味を妨げてしまう)、個々人の強みと問題をよく認識し、私たちの最良の、また才能と最も強く結びついた努力を支え続けるような強化パターンを活用し、能力や気概に比較的乏しい人々の能力と活力を育み、不運にも深い学習性無力感に陥ってしまった人々の復帰を支援する、というものになるだろう。このようなパターンに従うということは、極度にやる気を削がれていながら、四苦八苦してなけなしの努力を奮う人々に比べて、最も活力と能力にあふれた人々の方が、場合によっては、よりわずかの報酬/報賞しか受けられないことがある、ということを意味する。(二二六頁)
ここでは、個々人をよく観察してその努力を支え才能を開花させるような正の強化パターンが是とされ、とくに(ここが大事!)ふつうの意味で「有能なひと」が場合によってはそうでないひとと比してより少なくしか厚遇されないことが許容される、と言われている。すなわちウォーラーが推す社会的処遇のあり方は、ふつうの意味で「成功した」ひとへより少なく与え、ふつうの意味で「結果を出せない」ひとへより多く与える、という分配を適切なものとして認めうるのである。
ここで気になるのは《こうした分配を適切なものとする原理は何か》である。ウォーラーはそれを明示的に説明していない。それゆえ読者の側で考える必要がある。ひとつの考え方は《ウォーラーは福利最大化原理(A)によって問題のタイプの分配を正当化している》というものだ。これは少なくとも可能な読解だが、いささか筋が悪い(なぜなら、こう解釈するためには、「四苦八苦してなけなしの努力を奮う人々」への厚遇が社会の福利の最大化に寄与するという追加の主張を行なわねばならないからだ)。むしろ「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」というマルクスの言葉[2]に呼応する形で、ウォーラーは次のような「ニーズ原理」に従っていると考えるほうが直接的で明快である。
(F)ニーズの少ないひとへにかんしてより少なく厚遇を行なうことが許容され、ニーズの多いひとへはより多く厚遇を行なうことが当為である。
ここでの「ニーズ」は抽象的に術語化されているに過ぎないので、踏み込んで議論するさいには《ニーズとは何か》を掘り下げる必要がある。本稿では――紙幅の都合上――(F)と(A)がどのような点で異なるかを強調するにとどめたい。じつに(F)に従う分配は、たとえ社会の福利の最大化へ寄与しない場合でも、ニーズの多いひと(例えばより恵まれないひと)へより多くを与えることを認める。快楽の総量を増すことよりも、ニーズに応えることが重視される、ということだ。
さてウォーラーのやっていることを全体として捉えるさいに避けて通ることのできない問題がある。最後にこれに取り組もう。
ウォーラーは《ひとに責任を帰して責めたり罰したり称えたり恩賞したりすることは不正だ》と論じるさい《責任をめぐる違いがないところで処遇に格差を設けることは不正だ》という必要性テーゼを採用した。だがこのテーゼに従うと、自然主義下では、ウォーラーが推す分配パターンは不正になる。というのも〈ふつうの意味で「成功した」ひとへより少なく与え、ふつうの意味で「結果を出せない」ひとへより多く与える〉というやり方は、責任の違いの無いところで処遇に格差を設けるからである。問題を直感的に分かりやすく定式化すれば次だ。カレンとルイーズのあいだに処遇の格差をつけることが不公正であるならば、「成功した」ひとと「結果を出せない」ひとのあいだに処遇の格差をつけることも不公正なのではないか。
この問題はいろいろな角度から論じられるが、ここでは――ふたたび紙幅の都合上――ウォーラーのやっていることを整合的に理解するための大まかな道筋を示すにとどめる。
ウォーラーはいったん応報主義の発想(必要性テーゼ)を採用する。そのうえで彼は、自然主義下では、責任実践の正しい遂行は〈誰に対しても何ひとつ処遇しない〉というものになる、という事実を明らかにする。すなわち逆から言えば、自然主義下で誰かに責任を帰して責めたり罰したり称えたり恩賞したりすることはすべて不正となる。これは《応報的な社会的処遇が或る意味で破綻していること》を示す。それゆえウォーラーはこうした破綻を理由に応報主義の発想を丸ごと捨て去る。そして、応報的正義が乗り越えられた次元で(すなわち例えば責任のない者を厚遇しても「不正」とされない次元で)、《社会的処遇の適切な割り振り方はどのようなものか》を問う。そしてニーズ原理のようなものに行きつく。
教訓は何だろうか。ウォーラーは《責任実践は不公正だ》と主張するが、「……は不公正だ」や「……は不正だ」という判断は無料では手に入らない。この点を説明すれば以下だ。
自然主義下では、ひとは何にたいしても責任を負わない。それゆえここで例えば《ルイーズは差別を黙認したことおよびその結果に責任を負う》と言うとそれは偽になる。だが、たとえこう述べることが偽であったとしても、それだけからルイーズを責めたり罰したりすることの「正しくなさ」を導き出すことはできない(要するに、偽と不正は異なる、ということだ)。じつに、ルイーズを責めたり罰したりすることが正しくないのは、そのようにすることが〈責任が無いにもかかわらず責任を帰してそれに応じた処遇を行なうこと〉であるからだ。とはいえこう説明することは《悪いことに責任を負わないひとを悪く遇することは不正だ》という応報的原理を受け入れることに等しい。かくして、ウォーラーの《責任実践は不正だ》という議論は少なくともいったん応報主義の発想を受け入れることによって成立している、と言える。
たったいま述べたことは――念のための注意だが――ウォーラーへの批判ではない。それはむしろ《彼の議論がどんな道筋で進んでいるのか》を解明する。ウォーラーの立論は意外にも「弁証法的な」ツイストを具える。すなわち、いったん応報主義を一部採用しながらも、自然主義下でのその破綻(すなわち正しい責任実践が不可避的に無為な空回りに陥ること)を見極め、そのうえでその発想を捨て去る。こんな仕方で責任の概念が放棄された地点に立ち、そこから《適切な社会的処遇のあり方は何か》を問い、あらためてニーズ原理のようなものを採り、最終的に〈ふつうの意味で「成功した」ひとへより少なく与え、ふつうの意味で「結果を出せない」ひとへより多く与える〉といった割り当てを是とする。これがウォーラーの道徳的責任廃絶論がやっていることだ。
7.おわりに
残りの部分は付録である。本論に組み込めなかった(雑感的な)事柄をいくつか述べたい。
ウォーラーが責任実践を「不正だ」と言うとき一定の責任原理が前提されている、という連関が指摘されたが、ここにはいろいろな示唆が含まれる。私にとってこの連関は〈責任実践の抜け出しがたさ〉の一部だと思われる。この話題は拙著[3]で論じられているので、関心のある方は参照されたい。
ウォーラーはその議論の出発点で、自然主義のひとつのヴァージョンを採用し、《一切は物質の因果的連関の中にあり、人間もその一部に他ならない》とする。これはよく分かる見方であり私もたまに採用するが、これに固執すると他の可能性が見えなくなる。すなわち彼の理論的選択は結果として例えばデカルト、カント、ヘーゲル、ベルクソンをのっけから土俵の外に置いてしまう。読者においては、唯物論的なタイプの自然主義が好きか否かにかかわらず、《ウォーラーがこうした道行きを選んでいる》という事実についてはわきまえているほうがよい。
ウォーラーの「比較により示される不公正からの論証」は《責任をめぐる違いがないところで処遇に格差を設けることは不正だ》といった原理を前提するが、こうした考え方は政治哲学にける「運の平等主義(luck egalitarianism)」と関連しているように見える。運の平等主義とは《不運の結果としてよくない状態にあるひとをそのままにすることは不正義だ》といった発想にもとづいて運による不利益を解消していこうとする立場であり、例えばドウォーキン、アーヌソン、G・A・コーエンなどに帰せられる[4]。ウォーラーの議論と何かしら関連をもつだろうが、どう結びついているかは自明ではない。関心のある方は取り組まれればよいと思う(それによって自由と責任の哲学と政治哲学が接続する)。
ウォーラーは、ただ《ひとは何に対しても責任を負えないのだが、私たちの多くはひとが何かに責任を負いうると思っている》と指摘するだけでなく、《ひとへ責任を帰して責めたり罰したりすることは不正だ》と主張する。前者の指摘から後者の主張へ進むには「正/不正」にかんする何かしらの〈橋渡し原理〉が必要となる。本稿で私は《それは責任原理、とくにその必要性テーゼだ》と述べたが、それは説得的だっただろうか。それを説得的に感じないひとは自分なりに〈橋渡し原理〉を探されたい。いずれにせよ、責任実践の不正をウォーラーの仕方で糾弾するためには、そうした原理は無しでは済まされない。
註
[1] 本稿のページ参照は断りのない限りすべてウォーラー『道徳的責任廃絶論』(木島泰三訳、平凡社、二〇二五年)のものである。いくつかの術語について原語を確認したが、そのさいにはBruce Waller, Against Moral Responsibility, Cambridge, Massachusetts: The MIT Press, 2011を用いた。
[2] 『ゴーダ綱領批判』、望月清司訳、岩波文庫、一九七五年、三九頁
[3] 『人が人を罰するということ』、ちくま新書、二〇二三年
[4] この点についてはKasper Lippert-Rasmussen, Luck Egalitarianism, London: Bloomsbury, 2016の入門的紹介を参照した。
帰納法について以前かいた文章をいくつか
帰納法についてだいぶ前に書いたいくつかの短文をまとめておきたい。帰納法について哲学的な関心をもつひとにとっては、何かしら役に立つものとなっていると思う。
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帰納法の「進化論的」正当化(2021年2月6日 22:04)
「帰納法」は観察された事例から(例えば未来の事例の予測に役立つ)一般法則を導出する推論を指す。これは純粋に論理的な推論でない――それゆえ《なぜこうした推論は成り立つのか》という問いが提起されうる。この問いに答えを与える企ては「帰納法の正当化」と呼ばれたりする。
本ノートは先日の読書会の記録である。そこで参加者のひとり DK が鋭いことを言ったのだが、最近はすぐに過去の会話の内容を忘れてしまうのでここに書き留めておきたい。その読書会で現在読んでいるテキストはサミール・オカーシャの『科学哲学』(廣瀬覚訳、岩波書店、2008年)であり、はじめのほうで「帰納法」をめぐる議論が紹介される。
いかにして帰納法を正当化しうるか。先にも言ったように帰納法はそれ自体では論理的ではない。そしてそれはしばしば「自然の斉一性(uniformity of nature)」というより基礎的な前提を観察事例へ適用するものと解される。ここで言う「自然の斉一性」は――最も抽象的には――《私たちの生きる宇宙は、完全にカオス的ではなく、パターンをもつ事象から成る》という原理だ。この点を踏まえると帰納法の正当化の関して次のアイデアが浮かぶ。すなわち、自然の斉一性が成り立つことを証明することによって帰納法を正当化できるのではないか、と。
このやり方は循環に陥る――というのが通例の指摘だ。まず、完全にカオス的な宇宙が論理的に可能だと思われる以上、自然の斉一性を論理的に証明することはできない。となると〈経験を根拠に自然の斉一性を示す〉という道しかなさそうだが、これはいかにして行なわれうるか。例えば、私たちがこれまで観察してきた限りにおいて、私たちの宇宙にはパターンがある、それゆえ自然の斉一性は成立する、と論じられるとしよう。すぐに気づくように、この議論は帰納法を用いている。かくして問題のやり方は循環に陥る。
このように帰納法の正当化は簡単ではない。それゆえ例えば大森荘蔵は、私たちは帰納法へ自らの生を賭けているのだ、などと述べた――これは《帰納法は客観的に証明できるものではない》という見方の表明である。これはこれで重要な考え方だが、先日の読書会では DK が別視点の指摘を行なった。
出発点は戸田山和久の『科学哲学の冒険』(NHKブックス、2005年)における《私たちは帰納法を適切に用いることができるようにできている》という理路だ。戸田山曰く、
帰納法を使って科学をやってよさそうな究極の理由は、宇宙のわれわれがいる場所が、帰納が役に立つような場所だからだ。われわれのいる場所が、ありとあらゆるものがもっとカオス的で、最初の状態がちょっと違っただけで、そのあとどうなるかが劇的に違ってしまうような現象に満ちあふれているのだったら、帰納という情報処理をやる生き物は進化してこなかったろう。目立つ現象の中に、斉一的で周期的であるようなものがかなり存在する、そんな場所だから「帰納するようにできている」われわれがいる。(266頁)
ここでは、もし現実の宇宙で自然の斉一性がそれなりに成り立っていなかったとしたら、私たちのような〈帰納法を用いる認識者〉は進化しえなかったであろう、と論じられている。かくして、自然の斉一性は私たちのような種類の認識者の出現の条件であり、それゆえ私たちは、自分たちが存在する以上、《自然の斉一性はそれなりに成り立っている》と言うことができる。かくして帰納法は――トリッキーなやり方だが――「証明」された。
これはなかなかに「人間原理み」のある議論だが、たいへんよく分かる。とはいえ DK は、この議論は存在論的負荷のより少ないものへ鋳直されうる、と指摘した。その「より弱い」理路は以下のようなものだ。
現実の宇宙は必ずしも戸田山の言うように「目立つ現象の中に、斉一的で周期的であるようなものがかなり存在する」というものでないかもしれない。現実には相当にカオス的な側面がありうる。とはいえ生物とは〈パターンを利用する存在〉である。例えば環境がもつ周期的な特性を利用して自己複製の力を強める。あるいは環境の中からパターンを検出する能力は自然選択を通じて精度を増していくだろう。そして、一般にパターンは生存と繁殖のために利用されうるので、進化の過程のどこかしらの段階で生物体それ自体がパターンを創出するようになる。こうした進化史の末にいる私たちは、すでにしてパターンの多い環境に棲み込んでおり、自然のうちの「パターン的な」部分に注意を引き付けられるようになっており、自然をパターンをもつものとして記述するようになっている。
これは依然として「人間原理み」のある議論だが、戸田山の議論よりも――先にも触れたように――存在論的負荷が少ない。なぜなら今回の議論に従うと、たとえ宇宙がカオス的な側面を多く持っており「パターン的な」部分がマイノリティであったとしても、人間は数少ないパターン的な事象を検出しそれに関して帰納法を用いうるだろうからである。こうした理路が正しければ、宇宙には私たちに気づかれにくいカオス的な側面がそれなりにあることになる。
以上のいわゆる「進化科学哲学」と呼ばれうる議論がどのくらいうまくいくかはさらなる検討が必要であろう。これについては私たちの読書会がどこかの学会で報告するかもしれない。あるいは、しないかもしれない。
帰納法をめぐるふたつの懐疑(2021年2月13日 15:09)
私はいわゆる「帰納的推論」を使いながら生きている。これは、過去の(有限個の)データから一般的な法則を導き出す、などの推論だ。私は《帰納法を使うべきではない》などと提案しない。また《帰納法は疑わしい》と言うつもりもない。とはいえそれでもなお帰納法をめぐっては哲学的問題が存在するのである。
帰納的推論をめぐる哲学的問題は《それが論理的推論でない》という事実を発端のひとつとする。論理的推論の典型は次だ。
(MP) A であり、Aならば B である。それゆえ B である。
この「MP」と名づけられた推論は、たとえこの世界がどのようなものであったとしても、必ず成り立つところの推論である。論理的推論は〈世界の偶然的内容に拠らず成立する〉という特性をもつ。それゆえ『論理哲学論考』は論理的推論をいわば「世界の形式」と捉える。
とはいえ個別のデータへ帰納法を適用して一般的法則を導き出すという推論はどのような世界でも成り立つわけではない。このタイプの推論はむしろ、論理的に「弱い」前提から論理的に「強い」結論を導き出すという意味において、「論理的には誤謬」である。それゆえ帰納法のいかなる個別的適用もその反例となるような可能世界が存在する。したがって、意味論的に妥当な推論が「正しい」と言われるのと同じ意味で帰納的推論が「正しい」と言われる、ということはない。
以上を踏まえれば帰納法をめぐる一般的な哲学的問いが提起されうる。はたして帰納法はどのような意味で「正しい」と言えるのか。私はこれが興味深い問題だと考えている。
ところで――ここからがこのノートの本題だが――帰納法をめぐってはふたつの区別されるべき「懐疑的」問題がある。この点は先日の読書会で話題になった(DK が正確に説明してくれた)。以下、覚え書きもかねて、帰納法をめぐるふたつの懐疑をそれぞれ定式化したい。
第一のものは、うえで論じたことと直接かかわるものであり、「ヒュームの問題」と呼ばれうる。これは《なぜ有限個のデータが一般的な命題を確証しうるのか》を問う。この問いへの或る可能的な回答については先日のノートで論じた。こちらは帰納法をめぐる「スタンダードな」問題であり、踏み込んだ説明は不要であろう。
第二のものは、仮に《有限個のデータが一般的な命題を確証しうる》と認められた場合にも生じうる問題だ。これは「グッドマンの問題」と名づけられうるものであり(なぜならネルソン・グッドマンがは指摘したものであるので)、ときに「グルーのパラドックス」と呼ばれる。
「グルー」という色名は(私たちの言語では)例えば次のように定義できる。
〇 或る対象 X がグルーという色をもつのは、《もし X が2021年2月13日までに観察されればグリーンの色をもち、もし X が2021年2月14日以降に観察されればブルーの色をもつ》という場合、そしてこの場合に限る。
このような仕方で定義される「グルー」は私たちの観点からすれば奇妙な「選言的」性質であるが、この点はさしあたり措いておきたい。まず押さたいのは《「グルー」がどのようにして帰納法をめぐる問題を引き起こすか》である。
例えば2021年2月13日までに発見された数多くのエメラルドがすべてグリーンであったとしよう。このデータは帰納法に従って《すべてのエメラルドはグリーンである》という一般的法則を導出する、と考えられる。これはたしかにそうかもしれない。とはいえこれだけでない。同じデータは帰納法に従って《すべてのエメラルドはグルーである》という一般的法則も導出しうる。加えてこれと同様のことが、もう少しトリッキーな色概念を定義した場合にも成り立つ。かくして次のように言える。問題のデータから帰納法によって引き出されうる一般的法則は無数に存在する、と。
グッドマンの問題の要点は、私たちが手にしている(有限個の)データは思ったよりも多くの一般的な命題を確証してしまう、というものだ。それゆえ、もし上記のデータから《すべてのエメラルドはグリーンである》という一般的法則をピンポイントで導出したいのであれば、追加の制約が必要である。ではその追加の制約とはどのようなものだろうか。
ちなみに、ついさっきグルーは「選言的」であり奇妙だと述べられたが、グルーの奇妙さを論点先取なしに主張するためには工夫が必要になる。じっさい、もしグルーとブリーンの方が基礎的な性質である場合には、「グリーン」は以下の仕方で選言的に定義される。
〇 或る対象 X がグリーンという色をもつのは、《もし X が2021年2月13日までに観察されればグルーの色をもち、もしXが2021年2月14日以降に観察されればブリーンの色をもつ》という場合、そしてこの場合に限る。
もちろん、こうした点を踏まえたうえで、《グリーンとブルーの方が基礎的だ》と主張することは可能である(何かしら工夫が要るが)。いずれにせよ、グッドマンの問題にはいろいろな解決法があるだろうが、問題が存在することは否定できない。
帰納法の「正当化」、あるいは自然の斉一性の原理について――野矢茂樹「一寸先は闇か」、『語りえぬものを語る』、講談社学術文庫、2020年、199-208.(2021年2月14日 15:59)
帰納法の前提に「自然の斉一性の原理(the principle of the uniformity of nature)」がある、と言われることは多い。この原理は――いろいろな定式化があるが――例えば《自然現象の中には過去と未来にわたって存続する規則性がある》などと表現される。はたして斉一性の原理はそれが「正しい」ことが確かめられるような何かであるのか。
この問いについて野矢茂樹の論考「一寸先は闇か」(『語りえぬものを語る』、講談社学術文庫、2020年、199-208)が面白いことを述べている。以下その紹介である。
野矢は――このトピックの慣例どおり――ヒュームに言及する。この18世紀の哲学者は自然の斉一性の原理を或る種の「習慣」と見なす。どのような種類の習慣かと言えば、それは「動物的」と形容できる類だ。野矢曰く、
ティーカップを持っているとき、手を放せば落ちるという思いがそこに伴い、また、この高さから硬い床に落とせば割れるだろうとも思う。あるいは冬枯れた桜の枝を見ると、春の開花を待ち遠しく思う。これらはすべて過去の経験によって身についた習慣だ、とヒュームは言う。いわば思考の癖である。それは条件反射的な身体反応であり、後天的に身についたものとはいえ、動物が示すさまざまな本能的習性と違いはない。(204頁)
ここでは、或る特定の規則性について《それは過去と未来にわたって存続する》と信じることは経験の形成する習慣だ、と述べられている。すなわち、ヒュームによれば、例えば《ティーカップは硬い床に落ちれば割れる》と考えるのは「思考の癖」のようなものにすぎず、この命題を客観的に正当化することはできない。この理路は次を結論する。私たちが〈過去と未来にわたって存続するパターン〉だと信じているものは、決してじっさいにそうだと証明できるものではなく、むしろ条件反射的な動物的反応の産物である「習慣」なのだ、と。
野矢は、「ヒュームのこの洞察に最大限の敬意を払いたい」と述べながらも、この指摘は話の「半分にすぎない」と主張する(204-205頁)。なぜならヒュームの議論は、この大森門下の哲学者によれば、斉一性の原理の重要な側面を語り落しているからだ。
ではヒュームは何を見逃しているのか。それは斉一性の原理の「規範的な」側面である。この点を野矢は《蚊に刺されたらかゆくなる》という規則性を例に説明する。曰く、
例えば、蚊にさされたけれどかゆくなかったとしよう。そのときわれわれは、なぜ今回かゆくならなかったのか、その原因を知ろうとするだろう。そして探求の結果こんなことが分かったとする。蚊に刺されてかゆかったのは、血が固まらないようにする物質を含んだ唾液を蚊が注入するからであり、もし蚊が血とともにその物質もすっかり吸いとってくれたならば、ほとんどかゆくならないのだ、と。これはどうも事実であるらしく、だから叩かずに驚かさずゆっくり血を吸わせてあげればかゆくならないというのだが(ほんとかね)、それはともかく、こうして蚊の法則は「蚊に刺されるとかゆくなる」から「蚊の唾液が注入され体内に残るとかゆくなる」へと修正される。(205頁)
ここでは新たな規則性が見出される場面が描写されているが、注目すべきは《その規則性を見出すプロセスが習慣形成に尽きない》という点だ。野矢の例において「蚊に刺されるとかゆくなる」という元来の規則性に対して《蚊に刺されたけれどかゆくならない》という反証的なデータが与えられる。この場合、たんに元来の規則性が廃棄されるだけでなく、それに手を加えて新たな規則性が作られる。かかるプロセスにおいて自然の斉一性の原理は――今から踏み込んで説明するように――「規範的な」ものとして機能している。
野矢によれば、私たちは決して《自然現象に斉一性がある》と「記述的に」信じているのみならず、むしろ《自然のうちに斉一的なパターンを見出すべし!》という規範の中で生きている。曰く、
「斉一性の原理が成り立つように規則性を見出せ」、これはわれわれが法則を探求するときの指針なのである。斉一性の原理が一見破れているかのような現象が生じたならば、われわれは斉一性の原理を疑うのではなく、過去の規則性が適切に捉えられていなかったのだと反省する。そうして、未来へと投射可能になることを期待して、過去の規則性を捉え直すのである。それゆえ、われわれの探求において斉一性の原理が反証されることはありえない。(206頁)
すなわち、斉一性の原理は規範として私たちの思考を統制する機能をもつ、ということ。この点は蚊をめぐる規則の修正のケースに如実に現れている。斉一的な規則性の破れに対して私たちは〈それを修正して新たな斉一的規則性を創設する〉という仕方で応答する。《規則を斉一なものとせよ》というのは私たちの自然認識の「統制的原理」である(ここでカントのことを思い浮かべるひとは思い浮かべていただいて構わない)。
《なぜ自然の斉一性という規範的な原理を私たちは有するのか》という問いは措くとして、野矢の提示する《自然の斉一性の原理は規範的な側面をもつ》という命題は――言われてみれば当たり前のように聞こえるが――帰納法を考察するさいにたいへん重要だと言える。なぜなら私たちはついつい、自然がじっさいに斉一的な規則を有さないかぎり帰納法は正当に用いられない、などと考えがちだからである。とはいえ、斉一性の原理の規範的側面に鑑みると、《自然がじっさいに斉一性を有すること》と《私たちはこの原理を前提すべきこと》が別の話だと分かる。これらはもちろん互いに関連しうる話だが、さしあたりは区別されるべきものだ。
まとめよう。一方で、私たちは(ヒュームの言うように)経験を通じて自然の中に特定のパターンを見出す習慣を身につけるのであり、こうした一群の習慣的信念が《自然において見出される規則は斉一的だ》という一般的信念を支える、などと言える。だが他方で、私たちは〈自然の斉一性〉を探求の指針という規範的原理として用い、それによって規則を発見したり修正したりする。たしかに――先にも触れたように――なぜ自然の斉一性という原理へ規範的に従う「べき」なのかという問いは生じうる。とはいえ、この原理が規範性をもつ、という指摘はおそらく正しい。そして、この規範はより深い根拠を有さない、ということもありうる(野矢はこの路線を採る)。
因果関係と帰納法にかんするウィトゲンシュタインの見方(2021年2月15日 15:57)
先日から「帰納法」について考えている。今回のノートは《ウィトゲンシュタインは帰納法についてどのようなことを論じたか》を紹介する。帰納法にかんするこの哲学者の議論は、因果関係にかんする彼の議論と関連している。それゆえはじめにウィトゲンシュタイン(とりわけ前期ウィトゲンシュタイン)の因果論を見てみよう。
1 因果関係にかんするウィトゲンシュタインの見方
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のひとつの目標は〈世界の形式〉の本性を解明することである。ここで言う「世界の形式」は、世界においてどのような偶然的事態が成立しようとも、そこで必ず成り立っているような枠組みを指す。逆から言えばそれは、世界が世界たるさいに必ず具えている「型」である。こうした形式はいったい何か。
『論考』の答えは、世界の形式は論理だ、というもの。例えば――以前のノートでも挙げたが――ここで言う「論理」の典型事例は次である(ただし「⊃」は数学などで用いられる「ならば」を指す)。
A かつ A⊃B であるとき、B
この命題は、世界がどのようなあり方をしていても(すなわち A と B へいかなる事態を代入しようとも)、必ず成り立つ。こうした〈世界のあり方によらずに成り立つ論理の枠〉をウィトゲンシュタインは「トートロジー」と呼び、それを世界の形式と見なす。ちなみに『論考』の論理はいわゆる量化論理(の少なくとも一部)までカバーしているが、その点はこのノートの文脈では無視してかまわない。
さて――話をさらに一歩進めるが――以上の《世界の形式は論理だ》という考えとウィトゲンシュタインの有名な「論理的原子論」は互いに関連している。以下、この点の説明。
繰り返し述べるように、ウィトゲンシュタインによると、世界の形式は論理である。それゆえ――「分節化」という評判の悪い表現を用いさせていただくと――世界は A∨~A や (A∧(A⊃B))⊃B などの論理的な枠によって分節化されている。そして(次が重要!)このウィーンの哲学者によると、世界の根本的な枠は論理に尽きる。それゆえ、因果関係は論理関係をはみ出る何かである以上、因果関係は世界を分節化するものでなくなる。
前期ウィトゲンシュタインの「論理的原子論」の立場はいろいろな仕方で定式化できるだろうが、その内容は例えば以下のように表現できる。世界は根本的には論理によって分節化されており、因果関係などの論理外のものは世界を分節化するものではない、と。この考えは或る意味で「とっぴだ」と言えるが、なぜこう言えるかは《多くのひとは世界が因果関係によって分節化されていると考えている》という事実から説明できる。ウィトゲンシュタインは世界の形式を論理にまで切り詰める――その結果、因果関係は世界の形式から外れる。
以上の内容が提示される『論考』の箇所を見ておこう。繰り返し述べるようにウィトゲンシュタインによれば「世界」は A∨~A や (A∧(A⊃B))⊃B などで分節化されている――それゆえ世界は究極的には論理的に独立した p や q の要素命題に分析されうる。この場合、「pが生じた結果として q が生じる」などの言い方で因果関係は表現されるかもしれないが、ウィトゲンシュタインは《こうした因果関係は根本的には存在しない》と言う。曰く、
5.134 一つの要素命題から、他の要素命題が演繹されることはありえない。
5.135 どのようなしかたでも、ある状態が成立するということから、それとはまったく別種の状態の成立を推論することはできない。
5. 136 このような推論を正当化してくれそうな因果関係なるものは、存在しない。
5.1361 将来の出来事を、現在のそれから推論することは、できることではない。/因果関係への信仰は、迷信である。(山下一郎訳『論理哲学論』、中公クラシックス、2001年、137-138頁)
要するに、《因果関係が世界を根本的なレベルで分節化している》という考えは「迷信」に等しい、ということだ。因果関係はせいぜい偶然的な事実であり、世界を枠を形成しない。このようにウィトゲンシュタインは〈世界の形式としての因果関係〉の存在を否認する。
2 帰納法にかんするウィトゲンシュタインの見方
以上のようにウィトゲンシュタインは因果関係が世界の形式であることを否定する。したがって過去の出来事と未来の出来事を「必然的に」つなぐ関係は存在しない。その結果、ウィトゲンシュタインの考えにおいては、過去のデータから未来の出来事を予測することを可能にする「帰納法」もその根拠を失う。
じっさいウィトゲンシュタインは帰納法という手続きに関して次のように述べる。
6.3631 しかしながら、このような手続きは、なんら論理学的な根拠づけをもつものではない。心理学的な根拠づけをもつにすぎない。[…]
6.36311 あすも太陽はのぼるであろう、ということは、一つの仮説である。すなわち、太陽がのぼるかどうかということを、私たちは知っているとはいえない。
6. 37 何か別のことが生起したからというので、もう一つのことが生起しなくてはならない、というような強制はありえない。あるものは、論理的必然性のみ。(214-215頁)
最後の文は、出来事のあり方を「こうでなければならない」と強いる形式は論理しか存在しない、と述べる。それゆえ、《これまで太陽がのぼった》と《あすも太陽はのぼる》とのあいだには論理的関係が存在しない以上、前者は後者を必然化しない。かくして帰納法はいかなる根拠づけ(仮に根拠づけがあったとすればそれは「論理的根拠づけ」以外にないが)も持たない。かくして、ウィトゲンシュタインによれば、私たちが帰納法を用いることは心理的な事実に過ぎない。
――以上が帰納法にかんするウィーンの哲学者の見方だ。本ノートの残りの箇所ではこの見方のポイントを説明したい。
論理的原子論が採りうる立場かどうかは措くとして、《因果関係や帰納法は論理の領域を超える》というウィトゲンシュタインの指摘は正しい。そしてこの事実が因果や帰納法をめぐる哲学的問題の発端のひとつである。仮に因果関係や帰納法が論理の領域に属すものだったとしたら、たいした問題は生じなかったであろう――なぜなら、その場合、《因果関係があるか否か》や《帰納法は正しいか》は「ア・プリオリに」確認できただろうからだ。じつに因果関係が論理関係を超えるからこそ《因果とは何か》が問題になる。そして帰納法が論理の枠に収まらないからこそ《なぜ帰納法を用いてよいか》は問題になる。
はたしてウィトゲンシュタインの《因果関係は偶然的事実に過ぎない》や《人間が帰納法を用いることは心理的事実に過ぎない》という見方を受け入れるべきか否か、はさらなる検討を要する問いだ。例えば私自身について言えば、たしかに因果関係は論理の領域に属さないが、それはたんなる偶然的事実以上の何かだ、と考えている。帰納法についても同様。たしかに帰納法は論理の次元をはみ出すが、それは心理的なものに留まらない。――では因果とは何か、帰納法とは何か、が問われるだろうが、これについては今後も考察していきたい。
帰納法の正当化にかんするピーター・ストローソンの立場(2021年2月17日 15:42)
自然界を丹念に観察した結果、それが《未来が過去にまったく似ていない》という意味で「カオス的」だと判明したとしよう。この場合、私たちは帰納法をいわば「高階の」次元で適用して、過去のデータから不規則的な未来を予測するだろう。私たちはつねに帰納法が成り立つ枠組みの内部で思考している――これがピーター・ストローソンの重要な指摘だ。
帰納法にかんするストローソンの議論は『論理学の基礎〔下〕』(常俊宗三郎・木村慎哉・薮木栄夫訳、法律文化社、1976年)に収められているが、これもなかなか面白い。この哲学者はカント的であり・論理実証主義的であり・日常言語学派的であり・ウィトゲンシュタイン的であり、何と言うか、個性的である。私がこれまで繰り返しインスピレーションを得てきた哲学者のひとりだ。本ノートは「帰納法の正当化」にかんするストローソンの立場を手短に確認する。
帰納法は――復習しておくと――過去のデータから未来の予測に役立つ一般的法則を導き出すさいに用いられる推論の原理である。これは、これまでのノートで繰り返し強調したが、「論理的な」原理ではない。それゆえ《なぜ帰納法を用いてよいのか》という「帰納法の正当化の問題」が生じうる。
ストローソンの立場は、帰納法はそもそも《いかにそれは正当化されるか》が有意味に問われる次元にない、というものだ。なぜなら、帰納法は合理的な正当化を必要とするものではなく、むしろそれは私たちの思考の合理性を構成する一部だからである。
こうした指摘の根拠として、ストローソンは「混沌とした宇宙」の例――すなわち過去と未来がまったく似ていない宇宙の例――を論じる。このイギリスの哲学者曰く、
[…]混沌とした宇宙は、帰納が合理的でなくなるようなものではない。それはたんに、特定のことが起るであろうという趣旨の合理的期待を形づくることができなくなるような宇宙にすぎない。そのような宇宙では、特定の期待を形づくるのを差し控え、不規則性だけを予測することが少なくとも合理的となると言われるかもしれない。まさにそうである。しかしそのこと自身が高階の帰納である。すなわち不規則性が規則である場合、この先も不規則性を予期せよ、という帰納である。(139頁(上下巻通しで323頁))
ポイントのひとつは、仮に私たちが《世界は帰納法が或る意味で成り立たないものだ》と発見するとしても、こうした発見は帰納法(の高階の適用)にもとづかざるをえない、という点だ。《この世界では帰納法はいつもの仕方で用いられない》という判断が合理的であるためには、この判断は多かれ少なかれ〈世界の観察からの帰納〉にもとづいておらねばならない。この意味で帰納法は、根本的な次元において、私たちのア・ポステリオリな判断の合理性を構成するものなのである。
かくして、ストローソンによれば、帰納法は《正当化されるか否か》が問題になる事物の領域に属さない。それはいわば「人間の思考の自然な枠組み」に属すものであり、この点については別の論考「自由と怒り」でよりはっきり述べられている。曰く、
帰納にもとづいた信念形成と人間の深い関わりは、生来のものであり、自然なものであって、合理的に選び取られたものではない(不合理であるわけでもない)。考えて選び取るものではないし、捨てようにも捨てられないものである。(法野谷俊哉訳「自由と怒り」、門脇俊介+野矢茂樹編・監修『自由と行為の哲学』、春秋社、2010年、79頁)
ストローソンによれば、帰納法は〈人間が人間である限り、その思考が従うところの何か〉である。私たちはつねにすでに帰納法に従ってしまっている。これは或る意味の「生活形式」であり、人間生活の硬い岩盤である。――ちなみに、人間の生に正当化や合理化が問題にならないような「枠組み」がある、というのはストローソンの特徴的な人間観である。
まとめよう。
たしかに帰納法は論理的原理ではないが、ストローソンによれば、人間の生には論理以外にも「必然的な」ものがある。帰納法は人間の思考の枠組みを形成しており、それは決して捨て去られるものではない。私たちはむしろ、帰納法という枠の内部で、特定の経験的信念について《これは合理的だ》や《これは正当化されない》などと判定する。それゆえ《いかにして帰納法を正当化すべきか》という問いは、人間的生の枠組みの存在を見逃している「思弁的な」哲学者の的外れな欲求の産物に過ぎない、というわけだ。
因果推論および帰納法の本性の探求――澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』、勁草書房、2021年より(2021年2月18日)
折にふれて面白い本が公刊される。だから、毎日まいにち退屈であるが、それでも絶望するほどではない。澤田和範の『ヒュームの自然主義と懐疑主義』(勁草書房、2021年)も最近の私の〈因果性および帰納法への関心〉と関わるところがあり面白かった。本ノートは同書の(私が読み取った限りの)内容を手短に紹介するものだ。
澤田の著書全体の目標のひとつはヒュームの「懐疑主義」に――従来の理解を超えて――より的確な特徴づけを与えることである。その出発点となる動機は以下のようなもの。
周知のとおり、ヒュームは懐疑主義者だと言われることが多い。これに対して(後で詳しく確認するが)、《ヒュームが試みているのは例えば人間の因果推論を「発生論的に」説明することだ》と指摘して《この哲学者は懐疑主義者ではなく自然主義者だ》と主張する、という反論もある。この見方は示唆に富んでいる。それゆえヒュームの自然主義解釈は近年有力視されている。とはいえ話はここで終わらない。すなわち、この反論が真理に触れているにもかかわらず、それでもヒュームは無視できない意味で「懐疑主義者」だと言われうる――これはテクストに即してそう言える。そもそも自然主義的であることは必ずしも懐疑主義的であることを排除しない。ではヒュームはどのような意味で「懐疑主義者」だと言えるのか。
はたしてこの問いへ澤田はどう答えるか――この点はじっさいに本を読んで確かめて頂きたい。本ノートは因果推論や帰納法が論じられる箇所に焦点を絞る。なぜならこれは私の最近の関心にかかわるからだ。
本ノートで紹介したいのは《因果推論をめぐるヒュームの議論はそれ自体では懐疑的結論を導かない》と主張するさいの澤田の議論である(これは彼の全体的な立場のうち自然主義的解釈と軌を一にする部分である)。そこでは因果推論および帰納法にかんする興味深い指摘が提示される、と少なくとも私は考える。段階を踏んで確認しよう。
因果推論(あるいは帰納法)にかんするヒュームの議論は以下のように理解されることが多い(私も似たような解釈を漠然としていたような気がする)。
はたして因果推論は理性の業だろうか。もしこれが理性の業であるならば、それは合理的に説明されねばならない。とはいえ因果推論の前提たる「自然の斉一性の原理(すなわち、或る観念から別の観念を引き出すためのパターンが存在する、とする原理)」は、第一に論理的には証明されず、第二に循環なしには経験的に証明されない。それゆえ――ここが懐疑的結論を導き出すステップだが――私たちは因果推論を正当なものとして使用できない。
こうした理解はヒュームのじっさいのテクストを正確に踏まえたものではない。澤田は『人間本性論』におけるヒューム自身の議論の結論を引く。
理性は、経験、すなわち過去のすべての事例における恒常的随伴の観察に助けられても、一つの対象と別の対象との結合をけっして示し得ない。それゆえ、精神が、ある対象の観念から別の対象の観念へ、またある対象の印象から別の対象の信念へと移行するとき、精神は理性によって決定されているのではなくて、これらの対象の観念を連合させ、想像力においてそれらを結びつけるあるいくつかの原理によって、決定されているのである。(T 1.3.6.12)(14-15頁)
澤田が指摘するようにヒュームの結論は、因果推論法は正当なものとして使用されない、というものではない。そうではなしに、因果推論は観念連合の結果だ、というのが実際の結論である。ヒュームによれば、必然的な繋がりに導かれて因果推論が行なわれる、ということは事実ではない。むしろ、因果推論は想像力に媒介された「偶然的な」観念連合という心理的事実だ、と言えるのである。
押さえるべきは、「だから因果推論は正当なものとして使用されないし、さらには使用すべきでない」などとヒュームは述べない、という点だ。この点の重要性を理解するために澤田は次のふたつの問いを区別する(18頁)。
(A)我々はどのようにして信念に到達するべきか。
(B)我々はどのようにして信念に到達しているか。
そして澤田は、(A)は(B)から独立に答えることができない、という命題を自然主義的認識論の特徴とし(これは分かりやすい特徴づけである)、そのうえで《ヒュームはこの意味の自然主義者だ》と指摘する。その議論は重要なので全文引いておこう。
ヒュームの因果論(そして、実際にはヒューム哲学の大部分)は、まさにこの意味での自然主義的認識論の好例になっている。すなわち、当時の主流の哲学説は、「必然的結合」という幻想から生じているのである。そして、ある対象の本質的性質であって、それが理解されれば、それを生み出す原因やそれが産み出す結果への理性的な推論を保証してくれるようなものとしての「必然的結合」があるというその幻想は、ヒュームの目から見れば、(B)という問いへの反省を抜きに、(A)という問いへ答えようとした結果として生じたものにほかならない。ヒュームの因果論は、(B)の問いに取り組み、経験的証拠と哲学的論証に基づいて、我々はそのような「必然的結合」によって因果推論できないことを明らかにしようとするものである。したがって、ヒュームは、我々の因果推論の規範についても、机上の「べき」論ではなく、現実の我々にいかなる因果推論が可能なのかという事実の観点から(A)を問い直している。(18-19頁)
ヒュームは、多くのひとは因果推論に誤って「必然的結合」という強い繋がりを読み込んでいるが、じっさいのところ因果推論は観念連合である、と指摘する。これは――澤田自身も強調するが――因果推論の本性にかんする指摘である。それゆえ、よくよく考えれば必然的結合などどこにも見当たらないとしても、それは因果推論を禁じる理由にならない。むしろ私たちは日々、観念連合を通して、因果推論を行ない続けるだろう。そしてその中では「まずい」観念連合も生じるだろう(ここでの「まずい」はいろいろな仕方で特徴づけられうる)。
澤田(およびその他の自然主義の路線を採る解釈者)の紹介するヒュームは――この特徴づけを著者が気に入るかどうかは別として――或る種の「改定主義者(revisionist)」に見える。例えば自由意志に関する改定主義者の Manuel Vargas は、《「自由意志」という語はかつてリバタリアンの言うタイプを指示していた》と認めつつ、この内容がもはや維持不可能と考えて、「自由意志」が両立論者の言うタイプのそれを指すようにこの概念を改定しようと提案する。さて因果性に「必然的結合」を読み込むひとはいまだに多い。澤田の紹介するヒュームはこうしたひとに対して《因果性の概念を私たちの心理的事実に即して改定しようではないか》と提案する。この提案が受けいれられれば《或る推論が因果推論として妥当かどうか》は、《そこに必然的結合が反映されているか》ではなく、別の基準で測られることになるだろう(どのような基準があるかはそれ自体で哲学的問題である)。
――こうした議論は帰納法をめぐる考察にかんしても少なからぬインパクトを有するはずだ。
そもそも帰納法とは何か?(2021年2月19日 15:41)
先日から「帰納法」について考察しているが、そもそも帰納法とは何か。この問いに対して《帰納法とは○○という推論だ》と形式的に答えることは難しい、と私は考えている。たしかに帰納法をめぐる表面的な特徴づけはできる――とはいえ、思うに、この原理はいわば〈私たちの経験世界を構成する原理〉であり、それを経験世界の内部で対象化するのは難しい。本ノートはこうしたことについて駆け足で。
例えば――次はいわゆる「toy example」だが――帰納法が次の(★)という規則として形式化されたとしよう(ただし「⇒」は数学で用いられるような「ならば」を意味する)。
(★) P(a)⇒Q(a) と P(b)⇒Q(b) がデータとして得られているとき《任意の x についてP(x)⇒Q(x)》を導き出してよい。
これは、特定のパターンをもつデータから、そのパターンと合致する一般法則を導き出す、という推論であり「帰納法っぽい」特徴を具えている。とはいえ問題がある。それは、(★)はパターンの型を限定しすぎている、という点だ。例えば、P(a)⇒Q(a) と P(b)⇒Q(b) が成り立つが P(c) であり~Q(c) である(ただし「~」は否定を表わす)、のようなパターンをもつ世界では上のように形式化された帰納法は使用できない。以上の教訓は次だ。すなわち、帰納法を一般的な仕方で形式化したいのであれば、パターンの型を限定しすぎてはならない、と。
この文脈で(先日のノートで見た)ピーター・ストローソンの次の指摘が重要になる。それは、私たちが《この世界にはパターンが無い》と判断するさい、この判断は帰納法にもとづいておらねばならない、という指摘だ。この指摘の無視できない含意は次。すなわち、帰納法がカバーするパターンには無パターンも含まれる、と。言い換えれば、一定のレベルの無パターンをより高いレベルのパターンと見なせるくらいに一般的に帰納法は形式化されねばならない、ということだ。この点に気づくと〈帰納法を特定の文言で形式化する〉という試みは絶望的な様相を呈する。
――とはいえもう少し頑張ってみよう。
おそらく〈帰納法を抽象的に特徴づけること〉は可能である(と少なくとも現在の私は考えている)。とりあえず私の好んでいる「形式化」を天下り式に提示すれば次。
(☆)世界でカクカクシカジカの法則が成り立つと判断するさい、その判断は「あったこと」を根拠とせねばならない。そして、「あったこと」を根拠とすれば、法則の判断はさしあたりの根拠をもつ。
かなり抽象的だが(後で説明するように)いちおう実質的な内容をもつ形式化だと言える。《それがどのような実質的な内容をもつか》はあとで説明することにして、まずは(☆)の意味合いを説明したい。
私たちは、世界の構造を語るさい、過去の経験に頼るしかない――このあたりまえの事柄が(☆)という「帰納法」の内容の一部だ。(☆)は法則の発見のされ方にかかわる原理である。
敷衍しよう。一方で《何が論理的に正しいか》は過去の経験などに依存せずに確かめられる。他方で――対照的だが――《世界がどのような構造をもつか》は過去の経験以外に手がかりをもたない。もちろん世界の構造が論理に反することはないので、世界の構造を解明することにとって論理は役に立つだろう。とはいえ構造の具体的なあり方は過去の経験を参照して判断するしかない。この意味で、(☆)は〈世界の構造にかんするア・ポステオリな判断の仕方を規制するア・プリオリな規則〉だ、と言える。要するに、世界の構造的側面に関する認識と過去との関係性を語るのが(☆)だ、ということ。
先の(☆)は過度に抽象的でありそれゆえ実質的内容をもたないのではないか、と疑うひともいるだろう。とはいえ(☆)は実質的内容をもつと言える。なぜなら(☆)は例えば次のようなタイプの判断を不当なものとして排するからだ。
・これまでは A だったけど、これからは B が法則である(ここで B は ~A を含意するとする)。
すなわち、過去のデータに敢えて反するような仕方で法則を立ててはならない、ということ。これは言われるまでもなく当たり前のことだが、仮に帰納法が(☆)の仕方で「形式化」されれば、その truism は帰納法の内容の一部になる。
以上の話は、結局、「法則」の概念の規定にかかわる。そもそも過去と未来のあいだで変化するような事柄は「法則」の名に値しないだろう。この意味で「法則」とは、概念的に、世界の不変的(すなわち過去から未来にわたって一定の)側面を指す。この点を踏まえれば次のように言える。世界の法則を探求するとは、世界の不変的な側面を探すことだ。こうなると、「あったこと」が法則を認識するさいの根拠となる、と言えることの理由もより明らかになる。
ひとつの感想――アスペクト変換が生じる可能性
以下、ひとりの兵庫県人として、今回の選挙の感想をいくつか述べておきたい。今回も牛の涎のように幾分かダラダラ書く。
本題へ進む前に私と兵庫県の関係にふれておこう。私は神戸育ちである。具体的には垂水区育ちであって、一九七八年生まれなので、斎藤元彦氏とはけっこう近い環境で生きていた(きた)ことになる。その後、三田市に住んだこともあり、あるいは親戚が丹波篠山市にいたり、といった具合に、兵庫県のあり方について少しは「知っている」ほうだと思う。ただしそれについてたくさん知っていたり、詳しく知っていたりするわけではない。むしろ正確に言えば、兵庫という土地に生き、同じように生きているひとといわば〈はだ感覚〉のような何かを共有している、という具合だ。それゆえ以下の議論も多分に感覚的である。
さて、今回の選挙で斎藤陣営がインターネットを活用した運動を行ない始めたころ、私は次のように感じた。《ここは田舎の多い兵庫県であるので、都市部で威力を発揮するネット戦略は無力なのではないか》――結果はそうではなかった。今回の選挙で私が学んだことのひとつは《田舎の選挙であってもインターネットを活用した運動は効果をもつ》ということだ。この告白にたいして「え?! いまさら知ったの?!」と馬鹿にするひとは、ひとを馬鹿にしているつもりで、おそらくは自分のほうが間違いに陥っている。ポイントは《何を根拠に判断するか》である。一般に世界にかんする事実は経験にもとづいて判断される。そして問題の命題をサポートする経験は今回得られたものだ。経験はときに〈かつては憶断であったもの〉を〈根拠のある知識〉に変える。そのさい、根拠が得られる前に「知っている」と嘯いていたひとが、根拠が得られた後に「前から知っていた」ことになる、ということはない。むしろたんに《根拠の無い段階でそう思い込んでいた》と言えるに過ぎない。この点に鑑みれば、今回の選挙はひとつの壮大な実験であった、と言えるかもしれない。
ここで斎藤陣営とインターネットの関係について若干の補足。前段落で《斎藤陣営の選挙運動=ネット戦略》を前提したような議論を行なったが、この前提は根拠のないことではない。じっさい、今回の選挙において斎藤元彦氏はいわゆる「四面楚歌」の状態であって、行なえることは主に〈ネットを駆使して有権者に呼びかけること〉であった(すなわち例えば政党経由の組織票を望める状態になかった)。いまだに「よくもまあこんな状態で勝てたものだ」と感じるので、今回の選挙はその点においても興味深い。
さて、今回の選挙では斎藤元彦氏が勝ったのだが、このことは次のことを意味しうる。それは、兵庫県の有権者のうちの相当数が《議会の不信任によって失職した斎藤元彦氏は決して知事として不適格な人物ではなく、むしろ(他の候補者と比して)継続して知事を担うにふさわしい》と考えた、ということだ。ここで問題は《なぜそんなふうに考えうるか》である。以下、これに関連する事柄について考えてみたい。
私は、私の知っていることおよび私が関心を向けることに従って、《斎藤元彦氏は継続して知事を担うにふさわしくない》と考えている。他方で、私の知っていることとは違ったことを知っていたり、あるいは私が関心を向けることと違ったことに関心を向けたりするひとは《斎藤元彦氏は継続して知事を担うにふさわしい》と考えうるだろう。一部のひとは自分の投票行動を「正しい」と見なすが、この態度は行き過ぎれば偏狭な世界観に至る。とりわけ現在は選挙が終わった後なので〈俯瞰して理解する〉という姿勢こそが重要である。
――以上が前置きだ。いささか理屈っぽく書いたのは、理屈っぽい文章を読めるひとだけに読んでほしいからである。そして《なぜ私が今回このノートを書いたのか》の理由は、ここまでのウダウダした箇所を人目にさらしたいからではなく、以下の感想的な指摘を行ないたいからである。
さて本題へ進もう。
私にとっての疑問は《なぜ多くのひとが斎藤元彦氏は悪くないというストーリーを信じるに至ったか》である。ただちに必要な注意を加えれば(少し前に述べたことと関連するが)ひとによってはこの疑問は生じないだろうし、場合によっては《この疑問は的外れだ》と感じられるだろう。私はそう感じるひとが必ずしも間違っているとは考えない。いずれにせよ、今回の選挙の結果を受けて、私の知っていることと私が関心を向けることに従って生じてきた疑問は《なぜ多くのひとが斎藤元彦氏は悪くないというストーリーを信じるに至ったか》である。
私の答えは次だ。今回の選挙戦で斎藤元彦氏は自分の方が「被害者」だという物語の共有に成功した。斎藤元彦氏を応援する有権者の多くは《不信任で失職させられた斎藤元彦氏こそが被害を受けた側だ》と考えている(もちろんそれ以外もいるが、どちらかと言えば例外的だと思う)。とはいえなぜそう考えるに至ったのか。その理由は、斎藤氏以外の「被害者」の存在のリアリティが希薄だからだ。
有権者の多くは――私も同様だが――県民局長のことを知らない。そして斎藤元彦氏に(百条委員会で彼自身が述べていたことだが)強い言葉を投げかけられた職員のことを知らない。知っているのは〈多くのひとから袋叩きにあう斎藤元彦氏の姿〉である。連日のニュースであらゆる方角から責められるのをひたすら耐える斎藤元彦氏の姿。彼を非難する根拠の方は視聴者の目にははっきりと見えず(すなわち県民局長や職員の苦しむ姿は可視化されていない)、その一方で斎藤元彦氏の「受難」は圧倒的なリアリティをもってひとびとの前にさらされた。これはアスペクト変換が生じる可能性のある非対称性だ。すなわち、一定のストーリーの付加によって、物事の意味づけが大きく変わりうる状況である、ということ。
この状況は斎藤元彦氏にとってまさに起死回生のチャンスであった。そして彼はこの状況をうまく活用し――そして「援軍」と呼べばいいのか何だか分からないが、そういった何かの力を借りて――《自分こそが被害者だ》というイメージを多くのひとと共有するのに成功した。ここから得られる教訓は、「ひとが死んでいる」という言葉はときに、可視化された〈袋叩きにあう人間〉の姿のリアリティに負ける、ということだ。兵庫県の有権者のうちの少なからぬひとびとが悔し涙を流す斎藤元彦氏の姿に自身を重ね、「見捨てるわけにはいかぬ」と感じて票を投じた。苦しめられているひとを救うために、である。
かくして私は決して「メディアの敗北」という大雑把な表現を好む者ではないが、斎藤元彦氏をめぐるメディアのあり方にも問題がなかったわけではないと考えている。じっさい――別方向のありうる事態を挙げれば――加害者のほうを不可視にしたまま被害者の訴えばかりを映像化するさい、ひとによっては被害者のほうを〈攻撃者〉と表象するに至るだろう。押さえるべきは、一方的な〈さらし方〉はアスペクト変換のリスクを招来する、という点だ。
以上が私にとっての疑問にたいする私の答えの出し方である。今回の選挙にかんしてはその他の疑問を抱くひとがいるだろうが、そうしたひとは自分で考えて自分で答えを出されたい。知っていることと関心のあり方によって取り組むべき課題は変わる。