埴谷雄高の小説『死霊』のストーリー全体の紹介

はてなブログ」を始めることにした。かつて note に置いてあった記事を置いたり、新たに書いたものを置いたりしたい。

 

一回目は、わけあって、表題のとおり「埴谷雄高の小説『死霊』のストーリー全体の紹介」である。これは 2023年11月22日にnoteで公開したものだ。若干加筆したうえで以下に置いておきたい。

 

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本ノートは埴谷雄高の『死霊』[*]のストーリーを紹介する。なぜこれを行なうのかと言えば《この作品が全体としてどんなものか》をおおまかに掴むためのストーリー紹介は――私の知る限り――いまだ行なわれていないからである。いや、ひょっとしたらどこかでやられているかもしれないが、少なくともネットで簡単に手に入る内容紹介はないと思う。それゆえ、社会貢献の意味もこめて、今回は大雑把に『死霊』の物語を紹介したい。
[*] 現在、『死霊Ⅰ』・『死霊Ⅱ』・『死霊Ⅲ』(講談社文芸文庫、二〇〇三年)として文庫版で入手可能である。本ノートで行なわれる頁参照はすべてここからであり「第何巻・第何頁」を記す。

 

本題に入る前に注意点がひとつ。

 

このノートで行なわれるのは決して〈プロットの紹介〉ではない。思うに、『死霊』にかんして、プロットを正確になぞりながら内容紹介すれば、作品そのものと同じくらい「読解困難な」テキストが再生産されることになる。それゆえ本ノートは、じっさいのプロットから離れ、話の順序を組み換え、同作の内容をアクセスしやすいストーリーにまとめる。かくして本ノートは次のようなひとのために書かれたとも言える。それは〈かつて『死霊』の読解に取り組んだが、物語がどこへ向かっているのか分からなくなってしまい挫折した〉という経験のあるひとである。こうしたひとはけっこういるのではないか、と思う。

 

では『死霊』の内容の紹介へ進みたい[*]。
[*] ちなみに同作はミステリーの要素も具える――とりわけ「カラマーゾフ的な」種明かしの側面については伏せておきたい。
 

 
文庫本で三冊になる大作『死霊』は、限られた数の登場人物が織り成す、たった数日間の出来事を描く。

 

舞台となる場所や時代は意図的にぼやかされているが、埴谷が若かりし頃の日本のような環境をイメージすればよい。話の流れは、粗っぽく言って、二本の筋道の交わりから成る。ひとつは〈社会の革命によって世界のあり方を変える〉という目標に導かれて一部のキャラクターたちが非合法活動に取り組むという流れ、そしてもうひとつは〈存在の革命を通じて新たな様式の思考を実現する〉という哲学的な欲求に導かれた人物を中心として、キャラクターたちが思弁的な対話を延々と行なうという流れだ。これらふたつの革命、すなわち〈社会と世界の革命〉と〈存在と思考の革命〉が、作中で交じり合う。ふたつの流れの関わりを味わう、というのは同作の楽しみ方のひとつだろう。

 

物語は三輪与志[みわ・よし]という若者が、ある用事のために、某精神病院へ向かうシーンから始まる。じつにこの男性こそが存在の革命という哲学的欲求に導かれた人物だ。彼は自らの思考が存在の論理に縛られていることを不快に感じる。例えば「AはAである」や「私は私である」は私たちの思考が従わざるをえない存在の論理だが、彼にとってこの束縛は耐え難い。三輪与志は存在の論理を超える自由を求める。そしてそれによって「嘗てなかったもの、また決してあり得ぬもの」を実現せんとする(Ⅰ・七二)。そして彼はここで実現するものを「虚体」という用語で呼ぶのだが(Ⅰ・七二)、その理由はそこで実現されるものがもはや存在の次元を超えているからである。

 

与志が精神病院へ向かう用事は兄の高志[たかし]に依頼されたものだ。このあたりの事情は少し複雑なので、立ち止まって説明する。

 

与志が高校生だった頃、彼には矢場徹吾[やば・てつご]という友人がいた。だが、あるとき突然現れた少女と一緒に、徹吾は失踪してしまう――そしてそれ以来、与志とは一度も会うことがなかった。なぜ徹吾は失踪したか。その理由は社会と世界の革命を目指す非合法活動がかかわる。

 

与志の兄・高志は革命を目指す組織の幹部であった(与志は兄が具体的に何をしているか知らない)。そしてこの高志とつねにコンビを組む活動家に首猛夫[くび・たけお]がいた。徹吾を誘い出した少女はこの首猛夫の妹である。徹吾には事情があって、少女の誘いのまま失踪しする(けっきょく高校からは放校される)。そして彼は、この事件以後、組織のために働くことになる。すなわち徹吾は、ある印刷工場の地下室で、闇にまぎれながら組織の任務にあたるのである。

 

それからどうなったか。数年後、高志は逮捕され、首猛夫と徹吾も捕まる。高志は刑務所で病気になり、そのため仮釈放となって、いまは家で寝た切り状態である。徹吾も刑務所で何かしらの異常をきたし、ひとことも言葉を発さない「黙狂」と呼ばれる状態に陥っている(Ⅰ・八六)――その結果、徹吾はその身体を某精神病院に引き取られることになった。ちなみに首猛夫も(理由は謎だが)徹吾が刑務所を出るのと同じ日に仮釈放となった。

 

与志が現在向かっているのは、徹吾を引き受ける精神病院である(兄・高志は病気で動けないので、与志に徹吾を見に行くことを頼んだのだ)。沈黙する徹吾を診るのは若き精神科医・岸[きし]博士である。

 

病院に着いた与志は岸博士と対話する。岸博士は、与志の哲学的欲求を知りつつ、《人間の思考には人間的な形式があり、そこから抜け出すことはできない》と指摘する――曰く、人間は「一定の型へはまる」(Ⅰ・六七)。これにたいして与志は、自分は「まるきり違った思惟形式」を求める、と対立の意志を示す(Ⅰ・六八)。

 

さてどうなるか。こうした対話の最中、唐突に、与志と岸博士が語り合う部屋へ、首猛夫が姿を現す。この男はふたりのいずれとも知り合いではないが、徹吾を連れ去る企みのもと偵察がてらやって来たのである。首猛夫はいまだに社会と世界の革命を諦めておらず、作品全体を通して休みなく動き回る(この人物の活動が物語の進行を加速させる)。

 

このあと、与志・岸博士・首猛夫が語り合うことになる――いや、正確に言えば、首猛夫がいろいろしゃべり(彼は〈饒舌〉という性質を与えられている)、それに岸博士が応え、与氏は一歩退いている、という感じだ。ここで次に、同じ部屋へ若い女性・津田安寿子[つだ・やすこ]がやって来た。この女性は与志の婚約者であり、同日行なわれる法要のイベントのために与志を迎えにきたのである(与志は放っておくと家族の用事に間に合うか不安である)。与志と安寿子の関係についても手短に説明しておきたい。それは以下の通りだ。

 

数年前、津田安寿子のほうが三輪与志を一方的に好きなった。その結果――津田家と三輪家のあいだには長年の付き合いがあったので――両家はふたりを許婚とした。だが、存在の革命を目指す与志の心は、安寿子にとって理解できない。安寿子は与志が何を考えているのかを知りたいと思う。そして彼女はそれを知るために行動する。『死霊』は、〈与志という謎を安寿子が解明せんとして奮闘する〉という意味で、安寿子の冒険の物語でもある。ときに既刊部分に終盤では、この女性が奮闘する、と言える展開が生じる。

 

三人の話を聞く安寿子は《岸博士は与志の謎を明らかにする手掛りを与えてくれるかもしれない》と感じる。そこで彼女はこの精神科医を、明後日行なわれる自分の誕生日会に招待する。じつに――先取りして言えば――何だかんだあってこの誕生日会へは首猛夫も参加することになり、また『死霊』の公刊された物語はこの誕生日会の場面で幕を閉じることになる。さて埴谷が後の物語を構想していた事実に鑑みると同作は「未完の作品」だと言える。だが、しかしながら、この捉え方は必然ではない。じっさい、私たちの前には三日目の誕生日会の対話の途中で終わる『死霊』があるのであり、私たちはこれを完結した作品としても読むことができる(ちなみにこのロジックは、私は二葉亭四迷の『浮雲』のある解説から学んだ)。
 

 
ここからどうなるか。首猛夫の策謀が物語を牽引する。だが同時に与志と安寿子の関係性も物語の展開の軸となる。以下、残りのストーリーをごく大まかに見ていこう。

 

病院を後にした首猛夫は、自分が逮捕されたころの警視総監(これは安寿子の父である)へ会いに行き、そこで自身の計画をほのめかす。なぜ敢えてそんなほのめかしを行なうかと言えば、それは――ひとつには――因縁の相手へ「宣戦布告」するためである(Ⅰ・一八二)。とはいえその策謀は何か。それは、ひとびとへ「生か死かの二者撰一」を迫り、それでもって「人間精神」を「変革」することだ(Ⅰ・一九八)。言い換えれば、自らが〈死への存在〉だと自覚せしめることで「ただ生きている――それだけ」という状態を脱せしめる、という或る意味で前期ハイデガー的な革命のことである(Ⅰ・一九三)。

 

これが首猛夫の策謀であり、そのためには何かしらの力が要る。そこで首猛夫は組織が所有していたダイナマイトを手に入れることを目指す。そのため、まずは組織がかつて秘密の会合で使っていた屋根裏部屋に現在住んでいる黒川健吉[くろかわ・けんきち]のところへ行ってさぐりを入れ、その後で与志の兄・三輪高志のところへ向かうことを計画する。ちなみに、元警視総監のところを発つさい、首猛夫は巧みな話術によってこの男性の妻(安寿子の母)に気に入られる。

 

この後の流れをもう一度繰り返そう。話はさしあたり首猛夫に焦点を合わせて展開する。以下、彼はまずかつての知り合い・黒川健吉のところへ行き、そのあとでかつての相棒・三輪高志のところへ向かう。

 

まず黒川の住まい。ふたりは屋根裏部屋で対話する。そのさい期せずして話題が与志のことへ移る。健吉――このひとは徹吾と同じく与志の高校時代の友人であり、与志のよき理解者であるのだ――は《存在の論理を超えることはある意味で可能だ》とするが、その根拠は彼の歴史観にある。じつに健吉によれば、人類の歴史は所与の形式を破壊してきた「逸脱の歴史」であり、現在の思惟形式についてもそれが〈踏み越えられること〉はありうる。そして歴史は最終的に、この「逸脱の歴史」という形式すらも「迷妄の歴史」として否定し(Ⅰ・三四二‐三二三)、いわば「存在が存在たり得なくなった無限の涯」(Ⅰ・三四五)に至るだろう。要するに、歴史が〈型の破壊〉をその本質としている以上、存在の論理という形式もまた歴史の運動において乗り越えられうる、ということだ。

 

ダイナマイトの手がかりを得られなかった首猛夫は三輪高志のところへ向かうが、入れ替わりに与志が屋根裏部屋へ訪ねてきた。そして、与志と健吉は連れ立って外出し、かつて徹吾が働いていたという地下室のある印刷工場の場所を確かめる。両者には、徹吾をめぐって知りたいこと、知らねばならないことが多々ある。

 

ふたりは「明日、徹吾を見に行こう」と約束して別れる。そのあと与志は、同じ足で、兄・高志とかつて深い関係にあった女性・尾木節子[おぎ・せつこ]の妹である恒子[つねこ]の住まいへ向かう。これも兄に頼まれた用事だ。ここで高志と尾木節子の関係を説明せねばならないが、この話題は重要な仕方で〈与志と安寿子の関係〉にもかかわる。

 

数年前――これは『死霊』の公刊された物語の最後のほうで明らかになるが――組織の隠れ家で高志と節子は生活を共にしていた(組織は女性へ男性の世話を課す!)。節子は高志を愛し、彼の子を産むことを欲した。だが高志は、与志と似たような仕方で、存在の論理を憎んでいた。とりわけ高志は、「子供をつくってしまう」という人間の惰性をいわば〈存在を無反省的に再生産すること〉として嫌い(Ⅱ・一四三)、子をもたぬ者だけが「有の嘗て見知らぬ新しい未知の虚在を創造」すると述べる(Ⅲ・三〇三‐三〇四)。社会と世界の革命を目指す高志は同時に存在と思考の革命を目指す者であった、という点は注目されたい。

 

かくして高志は〈彼の子を産みたい〉という節子の願いを拒絶することになる。さて同じころ、組織の幹部連中のうちで、活動のあり方に疑問をもつ者が現れた。それは「一角犀」と呼ばれる男であり、彼はスパイの粛清(すなわち殺すこと)を組織から無理やり引き受けさせられた過去をもつ。高志は、ある思惑から、一角犀を自らの隠れ家に住まわせ、節子にこの男の世話をさせた。そして、高志の思惑どおり、節子は一角犀と心中した。高志は、言ってみれば、節子を利用して組織にとっての危険分子たる一角犀を消したわけである。

 

以上が高志と節子の関係だが、これは与志と安寿子の関係にもかかわる。なぜなら、弟・与志も兄・高志と同じく存在の論理を嫌う以上、弟はひょっとすると兄と同じ道を進むかもしれないからだ。はたして与志は、宿命のような何かに導かれ、高志と同じく自分を思うひとを死なせてしまうのか。それとも与志と安寿子は、高志と節子とは違った道を進みうるのか。《血の宿命は抗いうるのか》という問いも『死霊』の主題のひとつである。

 

さて心中事件から数年経ち、現在寝たきりの高志は、節子のことを考える。そして――思い直すことがあったのだろうか――高志は与志に「これを節子の妹である恒子へ渡せ」とロケットペンダントを託す。これが先述の用事の内容だ。そのロケットの中には、節子の写真が入っている。

 

恒子(節子の妹)の住まいで与志は彼女と語り合う。けっきょくいろいろあって、もって行ったロケットは受け取られず、さらに与志はもうひとつのロケット(これは節子が所有していたもので高志の写真が入っている)も持ち帰ることになった。与志はふたつのロケットを携えて高志のところへ向かう。
 

 
――さてどうなるか。

 

与志が兄のところへ戻ったとき、高志の傍らに首猛夫がいた。ダイナマイトの在り処を聞きに来たのだ。首猛夫は《ダイナマイトは印刷工場の地下(徹吾が働いていた場所)にある》という情報を得て、立ち去る。その後、高志が滔々と語る話を、与志は聞くことになる。話題は――ひとつの解釈では――寝たきりになった高志が見る夢のことである。その夢には〈存在の論理の超えた向こう側にいる悪魔〉が出現し、それが自らの境地について語る。この箇所(すなわち『死霊』第五章の主要部)は、存在の論理を超えた側からの議論を提示せんとする、という物語全体において重要な場面だ。ちなみに「自同律の不快」という、埴谷の有名なフレーズは、『死霊』においてはこの高志と与志が語り合う場面で登場する(Ⅱ・二三〇)。

 

次の日(物語の二日目)の朝、岸博士が与志の家へやって来た。そのわけは、病院で《徹吾の姿が消えた》という事件が発生し、それを徹吾の世話人である与志に報告するためである。与志は直感的に《あの印刷工場の地下に何かあるかも》と考える。与志は岸博士を連れて印刷工場へ向かう。

 

そのころ、黒川健吉は近所に住む知的障害の女の子をボートにのせ(遊んであげているのだ)、そのついでに川を移動して問題の印刷工場へ向かっていた。昨夜与志の聞いた場所を独自に調べてみようと思ったわけだ――ただし前からすでにそこへ行く用事もあったようだが(Ⅰ・三二〇、三九五)。その途中でたまたま首猛夫と会い、この男もボートに乗り込む(首猛夫はあわよくば黒川健吉をシンパにしたいと考えている)。

 

その後、健吉が漕ぐボートは津田安寿子とその母ものせて(川岸の道を歩くふたりのうちの母のほうに、首猛夫が声をかけたのである)、大所帯で印刷工場へ向かうことになる。互いに語り合ううちに安寿子は《健吉は与志を深い次元で理解している》と察し、健吉へ与志のことを尋ねる。そのさい健吉は、〈他を自へ取り入れることによって増殖する〉という存在のあり方を与志は拒んでおり、そのため与志は一種の停止状態にある(だから安寿子を愛し返したりもしない)、と指摘する。そして健吉は、与志は(他を死なせずに)自己自身だけで増殖するという、いまだかつてない形式の「創出」を目指している、と述べる(Ⅱ・三五四)。注目すべきは、与志の目指すところには一定の倫理がある、という点だ。

 

大所帯の一行は――途中でボートが転覆するという事故に見舞われつつも(Ⅱ・三三六)――印刷工場へ到着する。そこでは現在李奉洋[リー・ポンヤン]という朝鮮のひとが一人で働いているが、このひとは健吉のかねてからの知り合いだ。一行が工場に着いてすぐ、与志と岸博士も同じ工場に到着した。そしてただちに首猛夫は「徹吾を連れ去ったのはお前だろう」という嫌疑をかけられるが、うまくごまかし(すなわち或る衝撃的事実[*]を暴露することで話を逸らし)その場を立ち去る。もちろん徹吾を現在手にしているのは首猛夫である。

[*] どんな事実かは自分で確認されたい。

 

じつに徹吾は別の地下室で、首猛夫の妹に世話されつつ、黙ったまま座って時を過ごしている。また印刷工場の地下にあったダイナマイトも昨晩のうちに別の場所に移されたようだ。このあたりは首猛夫の計画通り。そして一行と別れた首猛夫は、徹吾のいる地下室へ戻る。そしてそこで数日ぶりに休む。ひさしぶりに睡眠をとるのである。

 

首猛夫が眠った後――彼の夢の中だろうか――黙狂の徹吾が語り出す。長らく沈黙してきたことの反動であるかのようにその語りはいつまでも続いていくが(文庫版で一五〇頁以上続く)、その語りにおいては、例えば自らが存続するには絶えず他の存在を「食わねば」ならない私たちの原罪的なあり方、あるいは時空という存在の根本形式を乗り越えた「自在宇宙」が語られたりする(Ⅲ・二一四)。ところでこのノートを読んでいるひとはこの時点で次の疑問を抱くかもしれない。なぜ三輪の名字をもたない徹吾が〈存在の論理〉を超えた事柄を語ろうとするのか。また同じく三輪の名字をもたない首猛夫が――仮に以上がこのひとの夢だとして――なぜこんな内容の夢を見るのか。このミステリーはじっさいに本を読んで解明されたい。

 

ここから物語はクライマックス(すなわち公刊された物語のうちで最も「肯定的な」何かが提示される箇所と私が考える部分)へ進む。

 

首猛夫が一行から離脱した後、与志や健吉はかつて徹吾が働いていた地下室に入ってみる。その後、与志は岸博士と連れだってさっさと別のどこかへ行ってしまう。ある意味で「取り残された」と言える安寿子は、現在の印刷工場の主である李奉洋から《活字がどう組まれるか》の説明を受け、その仕事に興味をもち、リーフレットをつくる作業を手伝うことにする。ここはたいへん美しい場面であり、『死霊』からポジティブな内容を引き出しうる重要な箇所だと思う。以下、手短に説明。

 

じつに――李奉洋が安寿子へ語るように――リーフレットは〈私たちが読みうる文字をさかさにした形で掘られた活字〉や〈ばらばらの頁が並んでできた組版〉からできあがっているが、同じようなことが存在一般についても成り立っているのではないか。一見私たちにとって理解不可能と思われることも、それはたんに私たちにとって「乱丁的」に思われるだけであって、あらゆるものはそれ固有の秩序と論理を有しているのではないか。この点の気づきは〈与志という謎を理解せんとする安寿子にとって重要な一歩〉であるにとどまらず、存在の論理を超えた思考を探求するという『死霊』全体の関心にとっても重要な一歩である。

 

このように安寿子のリーフレットづくりの場面にはたいへん重要なことが含意されていると思われるので、ぜひみなさんもこの場面まで辿り着かれたい。この箇所の意味については、私もどこかできちんと論じたいと思う[*]。

[*] とりあえずは『現代思想』の2024年4月号の私の連載で少し踏み込んで論じることになるだろう。

 

さてその後、いくつかの出来事が生じたのだが(例えば、健吉の鋭い推理力のおかげで安寿子は尾木恒子と出会う機会を得て、彼女から与志を理解するための重要な話を聞いたりする)、物語は三日目の安寿子の誕生日会へ進み。そこでの対話の途中で幕を閉じる。
 

――だいたい以上が『死霊』のストーリー紹介である。ちなみに、同作をある程度読んだことのあるひとは気づかれたように、本ノートは幾人かの印象的なキャラクターを意図的にぼやかしたり、あるいはまったく省略したりしている。なぜかと言えば、それをしなければ内容紹介は耐え難く長くなってしまうからだ(すでに現在の分量でも十分長い!)。他方で《同作には本ノートできちんと紹介できなかった魅力的なキャラクターが他にもたくさんいる》という点は強調しておきたい。例えば与志と高志の父親であるところの広志[ひろし]、「処女の淫売婦」である少女・「ねんね」(Ⅰ・四一一)、その妹の「神様」――これは健吉がボートにのせてやっていた少女だ――、また作品全体へ明るい空気を与えている津田夫人(安寿子の母親)などなど。年末[*]は『死霊』を読んで、「悪意と深淵の間に彷徨いつつ宇宙のごとく私語する死霊達」の一員になるのもよいかもしれない。

[*] この記事ははじめに書いたように2023年の末にアップロードされた。