ヒュームとストローソン――自由と責任の哲学における自然主義と懐疑主義をめぐって

2024年3月26日(火)――このポストが行なわれた日からみて「次の火曜日」――に「第6回非難の哲学・倫理学研究会(佐々木拓がオーガナイズ)がある。私はそこでヒュームの責任論とストローソン(父親のほう)のそれを比較する発表を行なう。その原稿が文字として存在するので、公にしておきたい。ただし、HatenaBlogの仕様のため、引用における傍点強調などは抜けてしまっている(体裁上の不足点についてはご容赦されたい)。

 

《自由と責任にかんするヒュームの立場は正確にどのようなものか》はあまり知られていないので、その点に関心のあるひとにとっては役立つテクストになっているかもしれない。

 

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ヒュームとストローソン

――自由と責任の哲学における自然主義懐疑主義をめぐって

 

1.はじめに

 

本稿は、自由と責任の哲学をテーマとしながら、デイヴィッド・ヒュームの立場とP・F・ストローソンのそれを比較する。はじめに《なぜこのふたりか》を説明しよう。 

ヒュームとストローソンのそれぞれが自由と責任の哲学の文脈で論じるに値する人物だという点は疑念の余地がない。そしてふたりのあいだには共通点がある。じつにふたりはいずれも傑出した両立論者だが、それだけでなく――本稿で見ていくように――どちらもその議論において〈情念〉や〈感情〉や〈態度〉に相当のウェイトを置く。それゆえヒュームとストローソンにかんして《どの点が同じか》および《どの点が対立するのか》を掘り下げることは双方の立場の理解を同時に深めることに繋がるだろう。 

本稿は最終的に何を目指すか。それは、〈自然主義をとる〉という点で問題のふたりのあいだに無視できない共闘があることを認めながらも、《ある種の懐疑主義にたいして両哲学者は有意に異なるリアクションをとる》と指摘する。どちらの応答がベターかは本稿では問題にしない。むしろ、こうした点でヒュームとストローソンが鋭く対立すること、そしてこの対立が重要であることだけを示したい 

本稿の議論は以下の順序で進む。まず自由と責任をめぐるヒュームの立場がどのようなものかをじっくり説明する(第2節から第5節)。なぜじっくりいくかと言えば、この点は案外よく知られていないからだ。残りのパートで、ストローソンの考えを紹介しながら、両哲学者を対比する[1] 

[1] 本稿はヒュームの一次文献として『人間本性論』と『人間知性研究』を選ぶ(ちなみに、本稿はヒューム研究ではないので、ふたつの作品の内容的な異同は問題にしない――ただしこれは《そうした異同はどうでもよいことだ》という考えを含意しない)。頁参照のさいの略記号については末尾の参考文献の項を見られたい。 

 

 2.「典型的な両立論者」としてのヒューム 

 

 《ヒュームは両立論者だ》というのは自由意志論史における常識だが、彼がどんなタイプの両立論者なのかは必ずしも自明ではない。ひとによってはヒュームをいわば「典型的な両立論者」と見るが、その理由は彼の書物のうちに次のような文言が見出されるからである。 

[…]もし人間の行為に原因結果の必然的結合がなければ、正義と道徳的衡平に両立するように罰を与える〔すなわち法にてらして罰を与える〕ことが不可能[になる]。(人性Ⅱ:158亀甲括弧内は訳者補足、四角括弧内は引用者補足) 

 

あらゆる人間の法は、報酬と罰〔を与えること〕に基礎をおいているのだから、「これらの動機(報酬と罰)が精神に影響を及ぼし、よき行為を生み出すとともに悪しき行為を防ぐ」ことが根本原理として想定されていることは実際確かである。(人性Ⅱ:158頁。丸括弧・鍵括弧は訳書のとおり。亀甲括弧内は訳者補足) 

 

[…]自由ということでわれわれが意味することができるのはひとえに、意志の決定に従って行為したりしなかったりする力、これのみである。すなわち、もしわれわれが休止することを選ぶなら、そうできる、動くことを選ぶならそうできるということ、これのみである。(人知:84頁) 

ひとつめの引用は《誰かへ責任を帰すことは因果の必然的連関を必要とする》と述べる。このテーゼは《責任と因果的必然性が両立すること》を含意する。ふたつめの引用は、責めたり罰したりすることの眼目は〈未来によい結果をもたらすこと〉にある、と示唆する。三つめの引用は、「Aは自由である」という言明は「もしAが……をすることを意志するならば、Aは……する」という条件文で分析されうる、と言っているとも読める。こうした文言たちは《ヒュームは典型的な両立論者だ》という命題をもっともらしくする。 

ところでここでの「典型的な両立論者」は何を意味するか。それは〈自由〉に条件法分析を施し、〈責任〉の役割を帰結主義的に理解する、というタイプの両立論者だ。おそらくシュリックの時代に多くいたであろう類型の両立論者である。そして先に引用した文言が現に存在する以上、ヒュームをこのタイプの両立論者と解することは広い意味で可能である。だが、立ち止まって考えればすぐに気づかれることだが、ヒュームを目下の意味の「典型的な両立論者」と断定することは短絡だと言える。なぜそう言えるのかを以下説明しよう 

 

3.因果と恒常的連接 

 

ヒュームの《責任と因果の必然的結合とが両立する》という主張を理解せんとするさいに忘れてはならないのは、この哲学者の言う「因果」や「必然性」はふつうの意味のそれではない、という点だ。じっさい――周知のとおり――ヒュームは彼の独特な〈印象と観念のシステム〉のうちで「因果」や「必然性」を再定義する。したがって、仮にヒュームへ何かしらの「因果的決定論」が帰せられるとしても(じっさいしばしば帰せられるが)、それはふつうの意味の因果的決定論ではありえない。かくしてヒュームが「典型的な両立論者」であることはありそうにないと言えるのである 

前段落の考察は《ではヒュームの立場は正確にはどのようなものか》という問いを喚起する。本節次節・次々節はこの問いへ答える。最終的にヒュームの両立論は、言ってみれば、ラディカルに経験論的なものだということが判明するだろう。 

第一に、ヒュームにおいて、「因果」や「必然性」は何を意味するか。彼の哲学の出発点となるアイテムは、経験的に与えられるものとしての、印象および観念である。すなわち意識に現れるもののうちで、「勢いと生気」の度合いが強いものが印象であり、それが弱いものが観念である(人性Ⅰ:13頁)。ヒュームの哲学においてはさまざまな現象が印象および観念の組み合わせとして説明される。「因果」や「必然性」も、今から見るように、この仕方で説明される。 

さて、印象や観念を組み合わせたり何かを何かで代表させたりして「個体」や「出来事」にあたるアイテムを作り出せるが、以下ではこれを「対象」と総称しよう。ヒュームにおいて因果は対象のあいだの関係のひとつである。とはいえそれはどんな関係か。ヒュームはこれを隣接性・継起性・必然性の三要素で特徴づける(人性Ⅰ:95-97頁)。すなわち、隣接する対象AとBの継起的関係が必然的であるとき、《AはBの原因である》とか《BはAの結果である》とか言われる。ただしここからヒュームは、期待されるとおり、哲学史上有名なムーブを行なう。それは――隣接性と継起性はさしたる問題が無いとして――《因果関係が必然的であるとはどのような意味か》を解明することである。 

この問いへのヒュームの答えはよく知られている。すなわち、これまでAの後にいつもBが続いたという「恒常的な随伴」が「必然的結合」の核心である、ということだ(人性Ⅰ:190頁)。ヒュームはこの点を「習慣」という語も使いながら説明する。曰く、 

 […]類似の事例が繰り返された後には、心は、一方の出来事が出現したことに基づいて、それにいつも随伴するものを期待し、それが存在するだろうと信じるよう、習慣によって導かれる[…]。それゆえ、われわれが心のなかで感じるこの結合、一つの対象からそれのいつもの随伴者に至るこの想像の習慣的推移、これこそが[…]必然的結合が形成される基となる心持ちあるいは印象である。(人知:67頁) 

このようにAとBの恒常的随伴の経験に基づいて心の中に形成された習慣的推移――すなわちAを考えればその後でBを考えてしまう習い性――が〈因果の必然的結合〉の実質である。ここで必ずや押さえるべきは、ヒュームによる「因果的必然性」の説明は「因果的必然性」でふつう意味されるところのもの(いわば実在的紐帯)を動員していない、という点だ。その結果、仮にヒュームが《自由と因果的必然性は両立する》と述べたとしても(じっさいにこの旨の文言は存在するが)、これは決してふつうの意味で解されてはならない。 

いったんまとめよう。 

因果的必然性にかんするヒュームの立場は以下だ。じつに、互いに繋がりのない印象や観念の織り成すシステムのうちでは、とくにパターンのない部分[2]と、同じパターンが繰り返される部分が観察される。そして後者の領域へ「因果」や「必然性」といった術語は適用される。こうした見方は――大事な特徴として――観察可能な領域を超えた必然的力能のようなものを持ち出さない。因果の連関はむしろ、経験の中から、経験を通じて形成される。 

[2] ヒュームは、《すべての存在は必ず原因をもつ》という命題は示されない、と指摘する(人性Ⅰ:100-103頁)。この指摘を印象‐観念のシステムの語彙で言い換えれば、世界のうちには恒常的連接(すなわち特定のパターン)の見出されない部分がありうる、となるだろう。 

 

4.ヒュームにおける自由と責任 

 

ヒュームは〈自由〉と〈責任〉を、以上のようなシステム――バラバラの印象や観念が、ある場所では一定のパターンを為し、別の場所では無秩序に戯れるシステム――において再定義する。次にこの点を確認しよう。 

ヒュームは《因果の必然性は人間の行動もカバーしうる》と考えるが、その根拠は《人間の行動にも恒常的連接が見出されうる》という事実にある(人性Ⅰ:147頁)。じっさい私たちは、あるひとが具える一般的属性や個別的特性を踏まえて、《彼/彼女が次に何をするか》を予測したりする。こうした予測可能性は《人間の行動が一定のパターンをもちうること》を含意する。より正確に言えば次だ。すなわち、経験的に恒常的連接が観察される領域のうちに、人間の(少なくともいくつかの)行動は属す、と。 

加えてヒュームは《ひとが自由に行為し、その行ないに責任を負うためには、そのひとの行動は因果的な必然性を具えねばならない》と言うが、それをサポートする理路は次。 

狂人が自由を持っていないひとは一般に認められている。しかし、狂人を彼らの行為によって判断するならば、彼らの行為は、賢明な人々の行為よりも規則性と恒常性に欠けていて、したがって、〔自由を持っていると認められている賢明な人々よりも〕さらに必然性から離れている。(人性Ⅱ:151頁。亀甲括弧内は訳者補足) 

ここでは、行動がパターンをもたないひとは「自由を欠く」と判断されざるをえず、自由に行為するひとはむしろ一定の規則性と恒常性に服す、とされる。加えてヒュームは「自由を欠くいかなる人間の行為も道徳的性質を帯びることはないし、是認や嫌悪の対象になることもありえない」と述べる(人知:88頁)。かくして道徳的責任を問われうる行為は、自由の領域に、すなわち――たったいま指摘されたことだが――何かしらのパターンをもつ領域に属すことになる。 

いまや典型的な両立論者とヒュームの違いのひとつが指摘できる。 

典型的な両立論者は、決定論的な[3]自然法則が万物を支配しており、宇宙のはじまりの時点でこの世の一切の状態が決まっていた、と考える。そして彼女あるいは彼は、こうした形而上学定な描像のもとで、《だが人間は自由でありうる》と主張する。これにたいしてヒュームはそもそも「トップダウン式の」形而上学的描像を持ち出さない。彼はむしろ経験的に与えられる印象‐観念の連関を観察する。その中には、パターンの見出されない部分もあれば、パターンの見られる部分もある。そして後者の部分が「因果的に必然」と言われる。 

[3] 決定論的な自然法則は〈初期条件が定まればその後のあらゆる時点の状態が定まる〉という特性をもつ。 

押さえるべきは次だ。すなわち、典型的な両立論者は《特定の自然法則が物体と人間を同じ仕方で縛る》と考えるが、ヒュームは《物体の運動のパターンと人間の行動のパターンは必ずしも同じでない》というテーゼを許容する、と。いや、ここは慎重に論じるべきところ(そしてヒューム理解の勘所)であるので、じっくり説明しよう 

一方でヒュームは、よく知られているとおり、《人間と物体は本性的に異なっており、人間は物体を支配する法則とは異なる原理に従う》などとは考えない。曰く「ただ一種類の必然性があるのであり、精神的必然性(moral necessity)と自然学的必然性(physical necessity)の間の通常の区別は自然のうちには根拠をもたない」(人性Ⅰ:201。丸括弧内補足は訳書のとおり)。この意味で――後でまた強調するように――ヒュームは「自然主義者」である。他方でこの立場は《物体の運動のパターンと人間のそれは同じだ》ということを含意しない。むしろヒュームの哲学はこのふたつを分ける余地を残しており、じっさい彼はこのふたつを区別する文言も提示する。例えば曰く「憎しみや怒りの常に変わらぬ普遍的対象は、人格(人間)つまり、思考と意識を付与された被造物である」(人性Ⅱ:158頁。丸括弧内補足は訳書のとおり)。すなわち印象‐観念のシステムにおいて対象はさまざまな仕方で関わり合うが、憎しみや怒りの印象は人間(の複雑印象)と結びつき、決して物体とは結びつかない、ということだ。これは《人間にかかわるパターンは、少なくともいくつかの点で、物体にかかわるそれと異なる》ということを意味する。 

いったんまとめよう。典型的な両立論者は《一定の自然法則群が根本的な次元で万物を支配する》という形而上学的な描像のもとで仕事をする。逆にヒュームは、形而上学への飛躍を控え、経験的な領域に留まる。そしてそこでの恒常的連接の観察によって、物体にかんするパターンを発見したり、人間特有のパターン(例えば憎しみや怒りの対象になりうること)を見出したりする。かくしてヒュームの枠組みにおいては――次節でさらに掘り下げるが――《人間の行動が物体の法則に支配されているならば、いかにして人間は自由でありうるのか》などの問題が生じない。物体には物体のパターンがあり、人間には人間のパターンがある。ただしヒュームは、人間は特殊な(すなわち超自然的な)法則に従っているわけではない、という点も強調する。じっさい人間のパターンも(物体のそれと同じく)経験的に構築されるものだ。ここにヒュームの自然主義の核心が存しており、それは決して人間を物体に同化するものではない。 

 

5.ラディカルな経験論者としてのヒューム 

 

 徐々にヒュームの両立論の個性が見えてきた。その立場は、〈自然法則のリアルな必然性を認めたうえで、それと人間的自由の調停を目指すもの〉ではなく、むしろ〈バラバラの対象のシステムの中で、物体の運動のパターンと共に人間の行動の規則性を観察し、後者に人間的自由の在り処を見出すもの〉である。この考え方は、その立て付けによって、典型的な両立論が直面する問題をバイパスする。ヒュームを「典型的な両立論者」と見なすことが短絡であることの理由はこのあたりにある。 

以上の議論を踏まえれば《本稿のはじめに引用された箇所はどう読まれるべきか》も明らかになる。この点を説明して、本稿におけるヒュームの立場の紹介を〆たい。 

第一の引用――《ヒュームにおいて責任は因果的必然性を要求する》という旨の文言――については次が留意されればよい。すなわち、ヒュームの言う「因果的必然性」はふつうの意味で解されるべきでない、と。そして、この術語をヒューム特有の意味で解するとき、この哲学者の両立論の独特さが把握できる。 

第三の引用――いわゆる自由の条件法分析を示唆する文言――については以下のように論じられるだろう。ヒュームにおいて人間的自由は、形式的に言えば、人間の行動の一定のパターンとして再定義される。そのさい〈自由〉の概念は、ひとつには、まともな規則性の見出されないひと(ヒュームが「狂人」と呼んだひと)と合理的な規則性に従うひととを区別する役割を担う。かかる〈自由〉の概念をひとつの角度からレジュメすれば《自由なひとは、もし……することを意志するならば、……をする》となるだろう。他方でただちに付け加えるべき注意だが、ヒュームの〈自由〉概念はこうした抽象的定式化に尽きるものではない。むしろそれは経験的に観察される、多かれ少なかれ多様な、合理的行動のパターンをカバーする。かくして第三の引用はヒューム的自由をひとつの仕方でレジュメするに過ぎない。逆から言えば、ヒュームの〈自由〉の概念は「賢明な」ひとびとの行動パターンを包括的に捉えるものであって、その実質は簡潔な言葉で要約することができない、ということだ。 

第二の引用――責任実践の眼目の「帰結主義的な」理解を提示すると読める文言――についても《これがヒュームの責任理解のすべてだ》と考えるべきでない。じっさいヒュームは責任実践を、私たちの感情生活との関わりにおいて、より「豊かに」理解しているこれはポール・ラッセルが強調する事柄だが(Russell 1995)、この人物の議論は私にとって難しいので(現時点で咀嚼できていない)、ここでは私なりの仕方で敷衍したい。 

一方でヒュームは第二の引用が示すように《責めたり罰したりすることが未来によい結果をもたらすこと》を認めるが、他方で彼は責任実践がいわば「ストローソン的な」(後述)感情や態度のネートワックにも繋がっているとする。ヒュームは例えば、《物事は全体として見ればどれも神の意志の結果であり、一切は正しく、責めたり罰したりすべき行為者は存在しない》という哲学的思弁によって責任実践が捨て去られることはない、と主張せんとする文脈で以下のように言う(いささか長くなるが重要な箇所をすべて引いておく)。 

人間の心は、ある性格や性向や行為が眼前に現れたとき直ちに賞賛か非難の心持ちを感じるように、自然的に形成されている。心の機構と構造にとってこれほど本質的な情感は存在しない。われわれの賞賛が保証される性格とは、主として、人間社会の平和と安全に寄与するようなものであり、非難を呼び起す性格とは、主に、公共のものを損傷したり妨害したりすることになりがちな、そのような性格である。かくして、こう推定することは理に適っているだろう、すなわち、道徳的心持ちは、媒介的にであれ直接的にであれ、このような対立する利害についての反省に由来するのだ、と。たとえ哲学的瞑想によって、「全体」に関してはすべてのものごとは正しいのであって、社会を混乱させるような性質も大体においては有益であり、もっと直接に社会の幸福や福祉を推進するものごとと同様に、自然の第一の意図に適しているのだ、などという全然違った意見や推測が確立されようと、それが何だというのか。そんな遠く離れた不確実な思弁が、対象を自然な仕方で直接に眺めたことから生じる心持ちに拮抗することなどできるというのだろうか。(人知:91頁) 

ここでは第一に、〈賞賛すること〉や〈非難すること〉といった責任実践が「帰結的な」利益や損害への反省に基礎をもつ、と言われている。だがこれだけではない。ここでは第二に〈浮世離れして疎遠な哲学的思弁〉と〈対象から直接得られる身近な心持ち〉との対比も強調されている。責任実践は後者の感情的営みのうちに根をはっており、決して高踏な形而上学によって根こぎされうるものではない。このようにヒュームにおいて〈責任〉の概念は、帰結主義的な考慮とも繋がっているが、同時に〈怒り〉や〈感謝〉などの感情の織物とも結びついている。じっさい例えば曰く「大変な大金を強奪された人、そういう人は、その損失に対する腹立たしさがあのような崇高な反省によってともかくも軽減されるなどとはたして思うだろうか」(人知:91頁)。責任実践はこうした感情のダイナミクスと連動しており、頭でっかちな哲学によって廃棄されうるものではない。 

けっきょくヒュームの両立論の核心的アイデアは何であるか。それは〈自由〉の条件法分析でも〈責任〉の帰結主義的な理解でもない。これらはヒュームの核心的発想の帰結であって、その発想そのものではない。彼の理論において最も重要なのは《自由や責任をめぐる人間の営みは印象と観念のシステムから経験的に生み出される》という考え方だ。すなわち、それ自体では個々バラバラであるところの印象や観念は、恒常的連接の観察と心の習慣によって一定の「まとまり」を築き上げる。この「まとまり」は人間の感情や振る舞いを一定の規則のもとで結びつけるネットワークであり、〈自由〉や〈責任〉はこうした結びつきの産物である。具体的には例えば――〈快〉の印象を求める直接的な情念たる〈欲求〉がひとの行動を駆動するがゆえに(人性Ⅱ:6-7頁)――経験的に構築される〈責任〉の概念はおのずと帰結主義的な側面をもつだろう。あるいは「まともであるまともでない」を分けるものとして経験的に構築される〈自由〉の概念は「まともな」ひとを「意志したとおりに行動する」などのパターン的特徴で弁別するだろう。ヒュームは《これらはどれも印象‐観念の習慣的な組織化の産物だ》と述べる。彼のこの核心的な発想は「ラディカルな経験論」と呼ばれうるだろう。なぜ「ラディカルな」と修飾するのかと言えば、後でふたたび強調するように、ヒュームの経験論が〈経験の領域を一歩もはみ出さないこと〉を意図するからである。例えば、本稿で取り上げたように、そこでは〈因果〉は超越的な力を動員することなく再定義される。 

最後に付け足しの注釈をひとつだけ。ヒュームの立場の《自由と必然性は両立する》という部分は、どちらかと言えば、根本的な発想からの帰結の方に属す。彼の立場において最も重要なのは、繰り返しになるが、〈印象‐観念の習慣的な組織化〉である。この経験的なプロセスによって人間の感情と行動のネットワークが生み出されるのだが、そのうちの一定のパターンの部分が「自由」と呼ばれる(に過ぎない)。もちろん《自由は必然性と対立せず、自由と対立するのはむしろ強制だ》と主張することはヒュームの自由論の重要な一部である(人性Ⅱ:154頁)。だがこの主張は先にも述べたように彼の体系全体の帰結的な一部であり、決してその核心的な発想を特徴づけない。そしてこの哲学者の独自性を記述するさいには、《印象‐観念の経験にもとづく習慣的な組織化(のみ)を通じて自由と責任をめぐる営みは生じる》という、ラディカルな経験論に注目するほうがよい。 

 

6.ヒュームとストローソンの類似性 

 

ヒュームとストローソンを比較するパートへ進もう。 

自由と責任をめぐるヒュームの考え方は、何となくすでにそう感じられているだろうが、ストローソンのそれに似ている。じっさい――例をひとつ挙げれば――ある種の懐疑主義者、すなわちひとが何かに責任を負うためには形而上学的な自由といった馬鹿げたものが必要となると指摘して責任実践の無根拠さを主張せんとする懐疑主義者にたいしてヒュームとストローソンは同じような応答を行なう。はじめにこの点を確認しよう。 

ヒュームの立場において〈自由〉と〈責任〉の概念は、前節で繰り返し強調したように、印象‐観念のシステムの中で組み立てられる。そして――ここが重要だが――こうした組織化は経験の領域を一歩もはみ出さずに遂行されるので〈自由〉と〈責任〉の概念にはちゃんと経験的実質が伴っている(その実質を細部まで述べ上げることは複雑さのために不可能だが)。すなわちラディカルな経験論のおかげで〈自由〉と〈責任〉の概念は必ず経験的な何かを実質とするに至っており、その結果、両概念のそれぞれの使用が空回ることはない。このように〈自由〉と〈責任〉の概念の使用可能性は、ヒュームにおいて、経験を基礎として保証されている。そのため責任実践は「形而上学的な自由」と言われるような「馬鹿げた」何かを必要とはしない。 

以上の理路にたいして先述の懐疑主義者は「いや、概念の事実的な使用可能性を指摘するだけでは、責任実践の正当化として不十分だ」と踏ん張るかもしれない。この場合、ヒュームはこのように〈踏ん張ること〉の不自然さを指摘するだろう。この哲学者によると、責任実践の正当性を疑うといった極端な立場は、日常的な生から離れることによって生じる「哲学的な憂鬱と譫妄」に過ぎない(人性Ⅰ:304頁)。じっさい「友人と食事をし、バックギャモンをして遊び、会話をして、愉快にな」ってしまえば、責任実践の正当性を疑うことなどが「冷たく無理のある滑稽なもの」だと気づかれる(人性Ⅰ:304頁)。そして、心の習慣が形成する安定した日常的な生の土台に立てば、破壊的な懐疑は却ってそれこそが馬鹿ばかしいものとして避けられる。 

ストローソンの立場[4]ではどうか。この哲学者の考えにおいて〈自由〉や〈責任〉は「人間的な生の一般的枠組」に属している(FR:55頁)。すなわち――この枠組みの内部で営まれる生の諸相のいくつかを記述すれば――他人から苦痛を受けたとき、その他人の行為に悪意が見えるときには、ひとは怒る。あるいは人間は互いに道徳的要求や道徳的期待を投げかけ合いながら生活しており、こうした要求や期待を裏切る行為(例えば一方的にひとを害する行為など)と出会った場合、ひとは義憤に駆られ「あなたはすべきでないことをした」などと責める。そして場合によっては当該人物を罰したりする。こうした一連の人間的な感情・態度・行為の交換が私たちの生を形づくっており、責任実践はこうした「自然な」交渉のうちにその基礎をもつ。それゆえ責任実践は「追い詰められたネズミが反撃するような曖昧な形而上学」(FR:78頁)を前提していない。かくして先述の懐疑主義者の主張の空振りが明らかになる。 

[4] ストローソンの立場は、拙著『人が人を罰するということ』(ちくま新書2023年)において詳しく紹介した。それゆえ本稿では手短に済ませる。 

以上のように《ヒュームの見方とストローソンのそれは似ている》というのは十分に主張可能な命題だその一方で、もし《では両者は本質的に同じ方向に進んでいるのか》や《ふたりのあいだに強調すべき差異はあるのか》などと問われるならば、話は複雑になる。例えばポール・ラッセルはかかる問いをめぐって両哲学者のあいだの本質的類似性を強調する道を選ぶ。 

ラッセルはまず《ヒュームの両立論はホッブズやシュリックのそれと同じグループに入れられるべきでない》と指摘する。この指摘の根拠は、究極的には、《ヒュームの自由論および責任論は、ホッブズやシュリックのそれと異なり、いわゆる道徳感情moral sentiment)へ核心的な役割を与えている》というラッセル自身の理解にある(Russell 1995: 58)。そしてこの哲学者は、《ストローソンもその自由論および責任論において道徳感情を決定的に重視する》と見なし、問題の二者を〈本質的に同じ方向に進む者〉と捉える。例えば曰く 

自由と責任の問題への取り組みにおいてヒュームの戦略とストローソンのそれの全体的類似性は決して無視できない。ふたりが一致する根本的な考え方は次だ。それはすなわち、道徳的責任の本性および条件を理解するさいには、道徳感情がこの領域で果たしている決定的な役割を考慮せねばならない、という考え方である。(Russell 1995: 81 

ここでは――繰り返しになるが――ヒュームとストローソンがともに〈責任実践における道徳感情の核心的役割を指摘する者〉と見なされている。これはこれで、少なくとも文脈によっては、可能な見方だろう。だが本稿はこれとは別の道をとりたい。 

じつに私は、いまから示さんとするように、《ヒュームとストローソンにかんしては最終的にその違いを強調することで各々の立場のポイントがさらに明確になる》と考えている。そしてこうした考えから《ラッセルの道行きはヒュームとストローソンのあいだの重要な差異を覆い隠している》とも感じるただし《ラッセルがなぜふたりの類似性を強調するのか》は文脈的に理解可能である。じつに彼は、ヒュームの責任論の現代的意義を説明するために、《私たちの時代にもヒュームの戦略を採用する重要な哲学者がいるぞ》とストローソンの名を挙げる(Russell 1995: 71)。残念ながら(?)私はこの文脈を共有しない。次節(本稿の最終節)ではヒュームとストローソンの違いを指摘したい。 

 

7.ヒュームとストローソンの差異 

 

問題のふたりはともに自然主義者である。ここでの「自然主義」は自由や責任の理解にさいして超自然的なアイテムを持ち出さない立場を意味する。ヒュームは〈自由〉と〈責任〉が印象‐観念の経験的なシステムにおいて生み出されると考える。ストローソンは〈自由〉と〈責任〉が人間の生の一般的な枠組みの一部だと考える。どちらも例えばリバタリアン形而上学的自由などに訴えておらず、いま述べた意味で「自然主義者」だと言える。 

このように――すでに繰り返し指摘したとおり――ヒュームとストローソンのあいだには無視できない共通点がある。だが同時に、看過すべきでない差異もある。ヒュームは日常と哲学のあいだのギャップを認めるが、ストローソンにおいてこの種の亀裂は無い。以下踏み込んで説明する。 

ヒュームの立場において〈自由〉や〈責任〉は、煎じ詰めて言えば、基礎的な印象や観念から心のいわば加工作用によって作り出されるような何かである。ここで〈自由〉や〈責任〉が構成される仕方を観察し、それによってこれらのアイテムの本性を認識している視点を「哲学」と呼ぼう。そして、こうした対象化や相対化を行なわず、ただ心の習慣によって出来上がった実践連関の内部を生きる視点を「日常」と呼ぼう。この言葉づかいを採用すればヒュームの立場のうちに劇的な対照を見出すことができる。じつに、日常の視点にとって自由や責任はまさに自由や責任たるものだが、哲学の視点にとっては〈自由〉や〈責任〉が印象‐観念をベースとした加工的産物に過ぎないことが暴露される。押さえるべきは、まさに《ヒュームの哲学は印象と観念だけを素材とする》という出発点の事実が、《彼の立場において日常的な意味の自由や責任はもはや取り戻されない》という運命を定めている、という連関だ。ヒュームの立場における日常と哲学のギャップは彼の探究の始まりに内在している。 

ここからどうなるか。結果としてヒュームの立場はある種の懐疑主義の可能性を許容することになる。それは哲学的な観点に立って《日常の観点から成り立つとされていることはじっさいに成り立っていないのでは?》と責め立てる懐疑主義だ。ヒュームは――前節でほんの少しふれたように――この種の懐疑主義者を論駁しようとはしない。むしろ彼は、《そうした懐疑は日常からの不自然な離反に過ぎない》とし、「日常に戻りたまえ、そうすれば知的な憂いは雲散霧消する」と奨める。もちろんこう述べるヒュームは間違っていない。なぜならじっさい、日常的生のうちでは、哲学的懐疑は無益に空回りする空言であらざるをえないからだ。とはいえここで見逃してはならないのは次の点である。すなわち、ヒュームの立場にとって哲学の懐疑主義は可能なムーブとして残りつづける、と。《かかる懐疑主義の可能性がヒュームの立場の全体においてさらにどんな意味をもっているか》はもはや専門家に任せるべき事柄なので、ここでは措く。本稿において重要なのは〈懐疑の余地を認めるヒューム〉と〈懐疑の足がかりを絶つストローソン〉の対比を打ち立てることである。 

ヒュームのやっていることの要点を理解しようとするさいに重要なのは、彼の哲学が〈対象化すること〉・〈観察すること〉・〈再定義すること〉といった、いわば日常を相対化するような活動から成る、という事実だ。こうした相対化の可能性が懐疑主義の土台となる。これにたいしてストローソンは日常を、すなわち(彼の言葉では)人間的な生を相対化しない。この哲学者は――前節で指摘したように――〈自由〉や〈責任〉を人間的な生の一般的な枠組みの一部と特徴づけるのだが、このとき彼は《哲学に取り組んでいる自分自身もこの枠組みの内側にいる》と考える。ストローソンにおいて哲学者は決して〈観察者の高みに立たない。哲学者も人間的生の空間の内部にいる。こうした点からヒュームとストローソンのあいだの有意な違いが生じる。 

ストローソンが〈自由〉や〈責任〉の基礎を一定の「枠」と見なすことの眼目は〈私たちのあらゆる営みがその内部で動かざるをえないえないフレームワーク〉の存在を指摘することだ。この哲学者の考えでは、この枠組みは私たちの手で相対化することができない。なぜなら、〈相対化すること〉も責任の伴う自由な行為である以上、こうした営みも問題の枠のうちに「回収」されざるをえないからである責任実践の基礎であるこのフレームワークは、《それはいかにして正当化されるか》が問題にならない仕方で[5]、言ってみれば〈私たちの生の可能性の条件〉として日常生活を「枠づけ」る。私たちは人間として生きる限りこの枠組みの下を離れられない。そして、哲学することも人間として生きることの一部である以上、哲学者の言動および思考もこの枠組みの内部の事柄である。 

[5]《人間的な生の一般的な枠組みについてはそもそも正当化が問題にならない》という事態に重点を置いてストローソンの「自由と怒り」を解釈する同論文の注釈書としてHieronymi 2020が挙げられる。 

以上よりストローソンが、少なくともヒュームのしなかった仕方で、懐疑主義の可能性を退けていることが分かる。じっさいストローソンの考えに従うと「こんな枠組みはじっさいには無いのではないか?」と言い立てる懐疑主義者の言説に正当な根拠が得られることはない。なぜなら問題の枠組みを相対化する地点に人間が立つことはできない(とされている)からだ。いやむしろ、さらに言えば次だ。すなわち、そうした懐疑主義者の言説も〈責任の伴う自由な行為として実践されている以上、彼あるいは彼女は自己矛盾に陥っているとさえ言える、とそれはすなわち自分の行為がそれとしてなされうるための前提を、その行為自体によって否定せんとするという「行為遂行的な」矛盾である)。かくしてヒュームの立場において「可能だ」と許容された懐疑主義は、ストローソンの立場において「間違い」と退けられる 

本稿は――冒頭で宣言したように――《ヒュームとストローソンのどちらが正しいのか》を問題にしない。また《どちらが魅力的なのか》すらも論じない。指摘したいのはひとえに両者の差異である。たしかにふたりの哲学者は自然主義的な共通性を具えるのだが、懐疑主義への応答にかんして異なる。すなわち懐疑主義にたいするストローソンの応えは、ヒュームのそれよりも、カントのそれに似ている。敢えて言えば、「自由と怒り」の作者は自然主義的な立場のもとで「超越論的な」反懐疑主義を展開しようと試みている、と特徴づけられるかもしれない。《自由と責任にかんしてカントとストローソンはどのあたりが同じで、どのあたりが違うのか》は別の機会に考察することにしたい。 

  

参考文献 

ヒュームの一次文献 

『人間本性論 1巻』、木曾好能訳、法政大学出版局1995年(初版)、2019年(普及版)。本稿では普及版を用い、「人性Ⅰ」と略記する。 

『人間本性論 2巻』、石川徹・中釜浩一・伊勢俊彦訳、法政大学出版局2011年(初版)、2019年(普及版)。本稿では普及版を用い、「人性Ⅱ」と略記する。 

『人間知性研究 付人間本性論摘要』、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局2004年(初版)、2020年(普及版)。本稿では普及版を用い、「人知」と略記する。 

 

それ以外 

Hieronymi, Pamela, 2020. Freedom, Resentment, and the Metaphysics of Morals, Princeton, Oxford: Princeton University Press 

Russell, Paul, 1995. Freedom and Moral Sentiment: Humes Way of Naturalizing Responsibility, New York, London: Oxford University Press 

Strawson, Peter, 1962. “Freedom and Resentment,” Proceedings of the British Academy, 48: 1-25, reprinted in G. Watson (ed.), 2003, Free Will, 2nd ed., Oxford, New York: Oxford University Press.: 72-93. 邦訳として法野谷俊哉訳「自由と怒り」(門脇俊介野矢茂樹編・監修『自由と行為の哲学』、春秋社、二〇一〇年所収)がある。本稿の引用は邦訳から行ない、「FR」と略記する。