《ひとは自分の行為に責任を負いうる》というテーゼをデネットはいかにサポートするか。

以下、《人間の自由や責任の存在をデネットはいかにサポートするか》を説明する。そのさい参照するのは『自由は進化する』(山形浩生訳、NTT出版、2005年)や『自由の余地』(戸田山和久訳、名古屋大学出版会、2020年)である。

じつにデネットにおいて〈責任をとる〉あるいは〈責任を負う〉という実践は或る種の「進化的な」プロセスを通じて生じる。そのプロセスは――いろいろ言葉を補って再構成[*]すれば――次のようなものだ。

[*] 後述の「罰してくれてありがとう」を理解可能にするための抜本的再構成である。

いまだ「お前が悪い」と互いに責め合ったりすることのない、一定の生物個体群が存在するとする。そして――これも目下の文脈では前提的なことだが――こうした個体群において〈協力する〉という行動が進化的に発生したとする。このさいこの集団においては〈協力しない者には負のリアクションを行なう〉という行動も発生する(なぜなら協力行動は協力しない者やフリーライダーへのネガティブな反応と共に生じるからだ)。

ここからどうなるか? 個体間の「軍拡競争」が生じる――例えば〈表向きは協力しているふりをする〉という個体も現れる。こうした軍拡競争に応じて《自分は協力していますよ》と他の個体へ伝える信号も複雑化していく。そしていずれ個体たちは、《誰が協力的か》などを判定するさい、顕示的に現れた行動だけでなく、言葉というシンボル作用も根拠とするようになる。すなわち個体たちは互いに「なぜそれをしたのか?」の理由を尋ね、互いの行動を〈裏切り〉や〈善意の失敗〉などとラベリングする。この〈理由をめぐるコミュニケーション〉の発生と洗練は、こうしたラベリングを引き受けられる主体と、それができない主体との区別を生む。

ここから〈責任をとる〉あるいは〈責任を負う〉という行為がいわば「合理的に」発生する。一般に、「お前のやっていることは裏切りだ」などのラベリングを引き受けることは、一定の条件下で、それを引き受ける個体にとって利益となりうる。それはどんな条件下か? じつに《こうした引き受けが、今後同じような「裏切り」行動を選んで不利益を被らないための自己修正となる》という条件の下では、「裏切りだ」などのラベリングを引き受けることは当の個体にとって利益たりうる。加えて、《そうした引き受けが、今後協力することのシグナルになる》という条件下でも、そうである。けっきょく、こうした条件が整っていくに応じて、各々の個体は適宜〈責任を取る〉や〈責任を負う〉という行動を行なうようになる。

以上が責任実践の発生のプロセスの説明だ。見逃してはならないのは、こうしたプロセスを記述することはいわば勝義の「説明」になっている、という点だ。じつに――この点を説明すると――与件として、「自己利益」の原理に従って行動する個体たちの集まりがあるとしよう。さて〈責任をとること〉は、一見したところ、「自己利益」の原理に反する。それゆえなぜそうした行動がとられうるかは謎である。かくして責任の発生の説明は必ずや《自己利益を追求する個体がなぜ敢えて一見自己に不利益な行動をおこなうのか》を明らかにせねばならない。デネットの説明はこれをきちんと行なっている。なぜならデネットの説明においては、〈責任をとること〉は〈自己の行動を修正すること〉を含んでおり、それゆえ責任をとる個体にたいして利益をもたらす行動だからである。かくしてデネットの説明を通じて《自己利益の原理に従って行動するタイプの個体が〈責任を負う〉という行動の傾向性を「合理的に」獲得しうること》が理解可能になる。

以上のように――ここが核心的に重要だが――〈責任をとること〉は〈自己の行動を修正すること〉を含む(かかる自己修正は、ある意味で、高次の自由だ)。それゆえそれは本人にとっても望ましい行動である。かくして十分に合理的なプレーヤーは、適切な条件下では、「喜んで」責任をとる。デネットはこの連関を「罰してくれてありがとう、目がさめたよ!」と表現する(『自由は進化する』412頁)。

かくして――デネットの説明では――〈責任を負うこと〉は、言ってみれば、「欲するに値する」高次の自由であることが判明した。それゆえ、ひとが責任を負わされるさい、そのひとはこれを引き受けることを「内的に」正当化できる(なぜなら当人にとっても利益がある事柄なので)。より踏み込んで言えば、一方で〈責任を負うこと〉の価値を理解し、責任を引き受けることを内的に正当化できる能力者は、きちんと責任を引き受けるだろう。逆に、そうしたことを理解できないひとについては、能力の無さに照らしてふさわしい処遇として〈責任免除〉が行なわれる。このように、能力の高低(あるいは高次の自由の有無)に応じて、「責任を負うべきひと/責任を免除されるべきひと」が分けられる。かくして《誰も自分の行為に責任を負うことができない》という「懐疑主義的」テーゼは退けられる。

かつて「責任にかんしてはデネットの立場がベストだ」と吹聴するひとに私が「では『自由は進化する』の終盤の「罰してくれてありがとう」ってどういう意味?」と尋ねても答えは「分からない」であった。私は、いまのところ、以上で説明されたような意味だと思う。だが、デネットの本は――正直言って――論理的に構成されておらずグチャグチャであるので、《以上の説明が本当に正しいか》は確信できない。ベターな読み方を知っているひとがおられれば、ぜひ教えていただきたい。